今日は好日Vol.2
2023年 6月15日 ありのままを頂く
簡単なようで、現代に暮らす私たちにとってはもっとも、受け入れづらいことかもしれない。というのもこのような言葉を聞くと一見何もしないことが、ありのままを頂くことだと受け取ってしまいかねないからだ。
では人生は何もしないことが目的かといえば、それに賛同する人は逆に少ないに違いない、私もそんなことはないと思っている一人だ。
なので私は自然と沸き立つものが、ありのままの世界だと信じている。つまり自分が心底楽しいと思うことに従うことが、ありのままを頂くことだと思っている。
そのように考えれば、自分の命を優先することは命に対する責任だとも言える。なぜなら自分の認識が命そのものと考えるからだ。このことはすべてのものが自分という認識だという思いからきている。嘘だと思ったら自分という感覚を持たない人がこの世に存在しているかどうか探してみると分かるはずだ。合わせて他人というものの存在を探してみると、他人という存在を自ら表現できる人はいない、そこには必ず自分という認識がなければ他人はどこにも存在していないからだ。
ところでこの自分という認識も様々で、ずいぶん楽しそうな自分もあれば、まったくつまらなそうな自分もいるようだ。できれば楽しそうな自分でありたいと思っていても、生まれた環境によっては楽しさどころか、日々飢えに苛まれるという厳しい現実があるからだ。
そのような世界にあっても我々は何万年もの間、途切れることなく命をつないできたのだ。私はこの命をつなぐ営みの表現が文化だと思っている。そのためには生命としての男女差のありようや、子供や老人、障害を持つ人たちのような弱い立場の生命をいかに社会において守るのかということも、世界最古の歴史を誇る我が国においては、すでに日本の社会文化に根付いていたはずだった。繰り返しになるが男女の性差を認め互いに補い合うことが何万年もの間、我々の命を繋ぐ行為を可能にしてきたのだ。
ところがいつの間にか、女性の母体は社会によって守られることよりも社会における労働力として扱われるようになってしまった。そのため労働基準においても男女は同じ基準を強いられるようになってしまった。まったく経済の合理性ばかりで女性にしか備わっていない能力についても今の労働基準は顧みられることがない。
これで女性の地位が向上したとか少子化云々というのは道理に合うことなのだろうか、我々人類はこのような生命にかかわる大事な部分を神の領域として触れることさえ恐れ多いこととしてきたのである。いわばこれが我々の獲得してきた叡智ではなかっただろうか。ところがこれほど人類が真っ先に守らなければならない大切な文化を政府は、まともな審議もなされぬままの法律で侵害しようとしている。
私の思うありのままとは、大いなる自然が用意してくれた生命の営みをただ有難く頂いていくことに他ならない、なぜなら私はこの世に人間の都合でどうにでもできる命はないと思っているからだ。