今日は好日Vol.2
2023年 6月23日 対立の裏には思想がある
このように思わなければ、何をするにつけても対立を起こすばかりだ。私はより多くの人が喜びを分かち合うことが民主主義の本質にあると思っている。言葉にすれば簡単だが実際は、様々な人々が異なる条件で暮らしているために、多くの人が同時に喜びをもって暮らすことは容易ではない。このようなジレンマから生み出された解決が、考え方の類型化であり一般的には思想というものだろう。
とはいえその思想についても、それが生まれた背景を知らなければ、目の前で起こっている出来事の本質に迫ることは出来ない。もしそのような理解なしに、どれほど悲惨な戦地に赴いたとしても、そこから発信できる情報は極めて情緒的なものに限られてしまうのではないだろうか。例えばいまも続くウクライナ戦争の異常性がどこにあるのかなど、目のまえで弾丸が飛び交う最前線では、思考をめぐらすことすら不可能に近いだろう。ところで先ほど読売新聞のオンラインニュースではアメリカのバイデン大統領が日本総理に対しウクライナ支援と防衛費の倍増を要請していたとあった。
結果はその通りになっている、この話をそのまま受け止めてしまうのは、この話にそれだけの説得力があるからだ。おそらく政府はこの成り行きを論理的に説明することは出来ないだろう。因みに今回の戦争で西側からウクライナに支援される資金は8兆円に上るそうだ。これほどの支援でウクライナ市民はどれほど潤うのかといえば、むしろ国民の生活はいつ終わるとも知れない塗炭の苦しみがこれからも続くのだと思うと、ウクライナ市民がこの支援を喜べるのかどうか疑問になる。さらにいえば、この支援の異常性は並外れた金額にある、この金額は今年トルコの大災害に対する海外支援の総額が26億円であることからも、単なる人道支援の枠を超えているように思える。
さてこのようなことを書くと支援に反対しているようにとられるかもしれないが、私の言いたいのはこのお金がそのまま武器に代わってしまったら誰が一番不幸になるのか考えてほしいという思いだ。つまり戦時中に一方の国にお金を支援することは武器の支援をすることと変わらないのである。つまり人道的な見地というのであれば、停戦の呼びかけなしに支援はありえないのではないだろうか。
私は以前、停戦のタイミングについて考えてみたことがある。それは戦況の優劣が曖昧な時点で双方の妥協を探ってはどうかと思っていたが、このような思いが政府に通じることはなかった。その後西側の支援でそろえた最新鋭の武器も期待した効果が得られず、戦況が好転することはなかった。とはいえこの攻勢が相当困難なことは最初から予想がついていた、もし戦線をもとの国境まで押し返すとすれば、ウクライナ一国の軍事力ではすでに限界だろう、それには西側が直接戦場に参加する必要が出てくるのだ。しかしながらこのような行動を西側がとったとすれば、ロシア側の態度はさらに硬化し核による攻撃も覚悟しなければならないということになる。このような危険に対しての訴えを日本はサミットの場において全世界に向かって発信する必要があったのだ。そしてそれこそが核の犠牲になった魂に報いる行動だったのではないだろうか。これらの主体性のない日本の行動にたいし、ロシアの評価は日本を敵対する国家として位置付けてしまった。
残念ながら、このことはロシアとの停戦の条件をさらに厳しいものにしてしまったことになる。以前はドンバスの武装解除で土地の所有をウクライナに戻すように要求できないかと考えたが、その可能性は少ないだろう、せいぜい両国がドネツク、ルガンスクの独立承認して非武装地帯を設けること合わせてウクライナのNATO加盟はさせないことだ。
もちろんこの仲介が成功するためには日本がロシアとの友好を表明することにあるが、今の日本の総理大臣に期待することは出来るだろうか。などと言っても、その夢が叶わないことはオンライン記事にもあった通りで日本の総理は、西側との軍事同盟にすり寄ろうとしている。その結果この行動が日本の歴史にとって何よりの不名誉にならないことを願っているのだが、アメリカの選挙如何によってこの行動は現政府の大変なリスクになるはずだ。このように、他国の言われるまま国の代表が国の政策を決定することなど、日本の歴史にあってはならない汚点である。
何故世界は対立するのか
これまでの戦争もその裏には必ず歴史的な背景があり、その歴史から常に思想が生み出される。
そのことを別な言い方にすれば、思想は人類が体験してきた悲劇への回答だともいえる。そのためその回答は時と場所、受け止める人種によって多様性が生まれる。つまり未だに人類が共通の思想を持ちえないのは、様々な歴史や風土の影響から離れて人類は、生存することが出来ないからである。
私はこのことが国という概念なのではないかと思っている。いっぽう世界には国を持たない民も存在しているが、最初から国を持たなかったのではなく国を失ってさ迷っているだけなのだ。このような民族の思想は、当然そのような生活環境に適した思想を育んでいるはずで、国が存在しない環境では思想がその民族にとって国以上の重要性を持つことになる。
このため世界の歴史において、思想そのものがこれらの違いに起因するさまざまな戦争要因になってきた。いまのウクライナ戦争にしても歴史学の茂木氏によれば、この戦争の歴史をたどればジンギスカンの時代まで遡るのだそうだ、これほどの長い対立に一時的な武力紛争で決着がつくとは考えづらい。
とはいえこのような対立が2,700年もの歴史を誇る日本において全く起こらなかったわけではない。日本の歴史の中でも度々紛争が起来ていたにもかかわらず、日本人の祖先はそれを乗り越えてきたのだ。ではそこで日本が用いてきた紛争を起こさない方法とは、大まかにはお互いの立場を尊重して共存することだった。そしてそのことを可能にさせてきたのがが、ルールを決めて厳格にそのルールを守ることとで、その根底には相手を尊重し対等の立場であることを確認する行為があった。
例えば日本人の会釈は世界的にみると、とても風変りでそれはお互い頭を同時に下げることから始まる。一般的に頭を他者に下げることは相手の優位性を認めることになるが、両者がであった瞬間一斉に両者が頭を下げたらどうなるだろう、この瞬間両者の間には優位性という序列は消えてしまうのだ。つまり頭を同時に下げる会釈はどんな立場の者でも平等であることを確認するという儀式だともいえる。つまり日本人は習慣として両者の優位性を否定することから人間関係を始めようとしているのだ。私はここにこそ平和という奇跡が生まれるてくるのだと思っている。