今日は好日Vol.2
2023年 7月31日 グロテスクと美しさ
昨日晩、日曜美術館で甲斐荘楠音(かいのしょう ただおと)という日本画家の特集があった。作品についてはきっと好き嫌いが分かれる画家だと思う、明治から昭和にかけて活躍された画家だそうだが絵面からは日本画の持つ、ただならぬ狂気を感じる。この写真はウェキペディアに掲載されているものだが、作家は作品のモデルとして自分のポートレートを使っている。この写真からもかなり危険な雰囲気が漂っているが、作品ではさらにその危険さが極まってくる。
私はこのような日本美術が持つ狂気に、ことさら恐ろしさを感じている。それはお盆に寺で見た地獄絵図や妖怪の類を描いた作品に他国の作品からは感じることのできない陰湿で底知れない恐ろしさを感じていたからだ。子供のころはこのような絵と共に和楽器奏でられるヒュードロドロという効果音が聞こえてくるだけで震え上がっていた。
さて私は楠音の作品にこれと同じ薄気味悪さを感じているが、この嫌悪感はこの時代を代表する作家土田麦僊も感じていたようだ、そのため楠音の作品は展覧会で落選の憂き目を見る。ところがそんな目にあっても楠音の作風が変わることはなかったのだ。
あらためて楠音の作品を見るとやはりグロテスクに感じる、ただよくよく作品を見るとそこには精緻な美しさが存在しているのが分かる。その美しさはどこからもたらされているかといえば、確かなデッサン力からだろう唇や指先の線描や彩色の技術には圧倒されてしまう。ところがこの西洋的でリアルな立体感は同じ平面でよじれ2次元の中に押し込まれてしまう。日本画の遠近法を無視した表現が平衡感覚を狂わせる。それはちょうど遊園地にあるアトラクションのように鑑賞者をザワザワとした不安の世界に引きずり込むのだ。
その違和感はまるで理想と現実の落差を浮き彫りにするようでもある。番組では森村泰昌氏が楠音の作品をモチーフにしておられたが、そこでは楠音の作品に対し揺らぎという表現が使われていた。確かに以前から私は氏の作品には楠音の作品と通じる揺らぎを感じていたのである。私はこの揺らぎとは土田麦僊が目指した絶対的で純粋な美とその対極にあるグロテスクとを行き来する感性のことだと感じた。
視たくはないが惹きつけられる、決して表面的には理解できない世界そんな美術の奥深さを感じさせてくれる番組だった。