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今日は好日Vol.2

2024年1月5日gallery,ようこそ,自作俳句絵画 無意識

2023年 8月22日 秋風に雲は流れて

新・山本二三展を観てから3か月がたった。アニメの背景画といえば、演劇でいう大道具や書割という表現になるかもしれない。つまり、それは演劇の中の舞台装置という演劇の添え物でしかなかった。ところがこの企画で美術館はその添え物を主役として取り扱っていたのだ。

とはいえ美術館の展覧会という公の機関の企画であるからには、これは大変な冒険だっただろうと思う。確かに一部の美術愛好家からは厳しい評価も聞こえていたが、価値観は流転すると考える私にとってこの展覧会は大いに楽ませて頂いた企画だった。

そもそもアニメは大衆の中でも、もっとも純粋な欲望をむき出しにする子供たちを対象とする文化だ。そのアニメが大人の思考する複雑な欲求を受け止めるためには、より精度の高い舞台装置が必要だったのではないだろうか。

その意味で山本二三氏の作品は群を抜いていた。しかも美術館に展示されていた作品は、どれも主役がいない舞台のはずだが、どこまでも続く微細な表現に私は時間を忘れてのめり込んでいた。きっと作者は平面の表現では満足せずに、まるで自分の感じる時空間まで、そこに表現しようとしていたのではないだろうか。というのも展示の後半で氏の描いた風景画が多数展示してあったのだが、絵描きの描くスケッチとはかなり異質な表現だった。確かにこれまでも細密な描写の風景画はよく目にしてきたが、氏の描いた風景画には店先の看板の文字まで正確に写し取られていたのだ。そんな情報は普通の風景画にとって必要のない情報に思われるのだが、氏の描いた風景画のどの絵にもその特徴がみられた。改めて考えてみるとこの行為の意味するところは、切り取った時空間を自分の描く平面に、そのすべて丸ごと再現しようとしたのではないだろうか。

そんな熱い思いが、単純化されたアニメのキャラクターと複雑な現実世界に暮らす大人の世界を、結び付ける接着剤になったのではないかと思っている。表現を変えれば日本のアニメは、この時ジェネレーションギャップを超えて、大人になった我々の意識にも無邪気で自由な創造の庭を与えてくれたのではないだろうか。8月19日山本二三氏は亡くなった。山本二三氏へ追悼の一句

「秋風に 雲は流れて 虹超える」