今日は好日Vol.2
2023年 1月3日 自分の足で立つ
今朝も偶然TVのスイッチを入れると、兵庫県にある曹洞宗安泰時という禅寺が特集されていた。私が最初に目にした場面は、ドイツ人夫婦の団欒の様子だった、何のことかと思っていたが、番組はこの恵まれた環境の恵まれた才能を持つご子息が安泰時という日本の禅寺に入門していることを伝えていた。 番組では様々な修行の様子と修行に励む僧を追っていたが、そのほとんどが海外からの入門者のようだった。ここでの修行はかなり厳しいもののようだったが、時間が過ぎると当然修行に対して目的を見失う僧も出てくる。番組の中でも下山を申し出る入門者がいて、その彼が下山の理由について述べていたことは「いつになったらこの修業が終わるのだろう」という疑問だった、なるほどである。 この疑問について考えてみると、彼はそもそも何を求めてこのような修行の道に入ったのかということになる。曹洞宗といえば、開祖の道元禅師は只管打坐という言葉を残された。意味は「ただ座れ」だ。この言葉から私が感じることは、ただひたすら自分を静かに見つめることだ。とかく私たちは何かに躓くとその答えを自分の外に求めてしまう。自分が躓いたのは、自分が正しい答えから外れてしまったからだと思ってしまうのだ。ところが彼が飛び込んだ曹洞宗では、その答えをひたすら自分の中に見つけることを強いる。 では、その答えは一体いつ見つかるのだろうか、「それは探すのを止めた時、自分の足で自立した時だ」つまり下山を選んだ彼は、すでにその答えを受け取っていたのかもしれない。 こんなことを書きながら、私は井上陽水氏の「夢の中へ」という歌の歌詞を思い出していた。この歌が出来た1978年井上陽水氏は当時、若干25歳だった。 「探すことを止めた時、見つかることもよくある話で 踊りましょう 夢の中へ行ってみたいと思いませんか」 「夢の中へ」の歌詞なのだが、やっぱり当時から異世界の人は違っていた。