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今日は好日Vol.2

2024年1月5日gallery,ようこそ,自作俳句絵画 無意識

2023年 2月12日 人類を破滅から救うたった一言

それは「NATOはウクライナの加入を認めない」という一言だ、たったこれだけのことを言えないがために、もうすぐ人類は破滅を迎えようとしている。残された時間もあまりなさそうなので、なぜ私がそう考えているのか簡潔に説明したい。 現在ウクライナ戦争の状況は新たな局面を迎えて、これまでにない緊張を感じている。それはロシアが新たに使った大祖国戦争という言葉に現れている。これまでのロシアは戦争という表現を極力避けてきた、それはウクライナが自分たちの同胞であるという認識があったためだと思われる。 ところが、あることを転機に紛争は戦争という言葉に置き換わり、それはナポレオンやヒトラーの侵攻にロシアが存亡をかけて対峙した戦争を意味する。このことはウクライナをこれまでの同胞という認識から、敵国人という認識に変化させてしまったからだろうか、私はそうではないと思っている。 ではその表現が変わった理由とは何か、それはプーチン氏がこの戦争をウクライナ人とロシア人の戦争ではなく、NATOとの戦争であるという認識をもって言葉を変化させたと思えるからだ。つまりNATOから祖国を守るための大祖国戦争という表現に変化させたということではないだろうか。この切っ掛けとなったのがNATO軍の最新鋭戦車の供与であることは間違いない。とはいえこれまでもNATO軍からウクライナには様々な兵器が供与されてきた。それがなぜ戦車になると態度が一変してしまうのだろうか、これについてはこれまでも述べたように戦車はただ供与されただけでは、あまり脅威にならない、むしろ戦車がどのように運用されるかが大きな問題になるからだ。 そのことは独ソ戦において史上最大の戦車戦を体験した国がドイツとロシアであることからも、両国には戦車戦とはどのようなものなのか記憶されているからだ、その戦いでは20万両を超える車両が皮肉にもウクライナ近郊で激突し、その戦いで双方何十万人の犠牲者が出た。結局この戦いにドイツは世界最強の戦車で臨み敗北してしまった。 その敗因については様々あるが作戦において戦車の機動力を生かすことが出来なかったともいわれている。そこから言えることは、もし何百両かの最新鋭戦車をウクライナが手に入れたとしても、はたしてウクライナはその戦車を戦略的に使いこなすことが出来るだろうかという疑問が湧いてくる。たとえば強力な戦車を使って一挙にロシアの手薄な戦線を突破できたとしても、それを補うようにすぐさま歩兵が戦線を維持できなければ、燃料弾薬を先行する戦車に届けることはできないからだ。 この場合いずれ戦車は敵に囲まれ袋叩きにされてしまう、最悪の場合そのまま鹵獲されて自分たちの戦車に逆襲されることもあり得るのだ。そんな機動戦を維持できる余力が、果たして今のウクライナにはあるのだろうか、ないとすれば一体だれがその穴を埋めることになるのか、そう考えると、それはNATO軍でしかないという結論になる。つまりウクライナが戦車戦を挑むくらいの大規模な戦闘を計画しているとすれば、それはもはやウクライナ軍ではなくNATO軍だという認識をロシアはしているということだ。 その様な戦闘になれば、当然ロシア側も十分な兵站を維持できる訳ではないので、劣勢に傾いた時点で小規模な核使用は十分考えられる、もしこの導火線に火が付けば、あっという間に連鎖は拡大し、もう誰にもその火を消すことはできなくなる。 結論を言うとウクライナがどちらにも与せず、中立であることが世界に平和をもたらす唯一の道だ。これほど単純な事実がなぜ世界で叫ばれないのか、これまで世界平和叫ぶ声はあちこちで聞こえていたが、一方の旗だけを振っていては火事場にガソリンをまくようなものである。 日本においても、これに倣い軍事的な中立の道を歩むべきだろう、現在の世界情勢を見ると人類の叡智とは何んなのかとても不安になる、宇宙の果てを覗いたり目に見えないほど微小なものを観察できる科学の力も、これほど単純な破滅の道をただ引き寄せているだけだったのか、人間の目がこれほど曇るのは何故だろうか、私はそこに貪欲に取り込まれた亡者の世界を感じている、それは修羅餓鬼畜生の世界でしかない。結局人間の貪欲が導く先は滅びの道だったということなのか、スイスに集まった聡明な方々のお力で是非世界に平和をもたらしてほしい。