今日は好日Vol.2
2023年 2月24日 もののあわれ
昨晩、本居宣長というTV番組を見た。国学者本居宣長をテーマにした一見堅苦しいと思える番組だったが、それは私の無知ゆえであった。では、あらためて彼の学んだ国学とは何かと聞かれて、すぐに答えられる方は相当な学識の方だとおもう。私などは番組を見るまで朱子学と国学の違いすら考えたことがなかった、国学といえば水戸光圀だと思っていたくらいだ。 とはいえやはり国学を一言で伝えるなどということは、実際無謀なことだと思う。私の得た国学の印象は、海外から渡ってきた思想のアンチではないかという消極的なとらえ方だ。番組では本居宣長が源氏物語で語られるもののあわれについての問いから、古事記伝の編纂を通し、本居宣長の国学を紹介している。 国学の紹介とは漢字文化が広まる以前からあった日本文化を見直す試みでもある。その世界は音声として伝わる言葉にこそあるという発見が本居宣長にあったことだ、ところがそのために挑んだ古事記の内容は、編纂から千年を経ており当時であっても、かなり難解なものだったようだ。 ところで、私が古事記に触れて最初に驚いたのはその倫理観のなさである。そこにはおよそ人生はこうあるべきだというような表現がまったくない。海外から伝えられる哲学や思想に、古事記を照らし合わせると、むしろその全く逆なのである。そこには怒りや嫉妬、とりとめもない猜疑心や復讐心などが、まるで人間の抱える赤裸々な業の世界のように綴られている。この文章はいったい後世の読者に何を伝えようとしているのか、海外の思想にまみれた思考からは少しも見つけることが出来ない。 では反対に、この文章を海外の思想から離れて読み直してみると、そこからは溌溂として瑞々しい感情の動きを感じることが出来る。それはあたかもルネサンスで再認識された人間の自由な感情表現のようである。そのように国学を捉えると本居宣長が心酔した源氏物語の、一見不道徳とも思われる耽美な世界も嘘偽らざる人間の本質なのである。 ところで、この番組のコメンテーターに芥川賞作家の又吉直樹氏が出ていた。私の中ではいまだにお笑いのピースで活躍されていた又吉氏の印象が強いのだが、じつは彼の登場で、もののあわれについて思い浮かんだことがあった。ちなみに番組では、もののあわれについて言葉では伝えることのできない感情のように表現されていたが、私はせっかくのその答えに勝手な解釈をしようとしている。 では私がその言葉に何を思ったのか、実は以前思考ラボの中で笑いは人間の業に対する共感とその昇華ではないかと述べたことがある、そのような視点からもののあわれという言葉を捉えると、それは厳然として贖うことのできない世界の受容ということなのではないだろうか。 このもののあわれという言葉は、日本の古典文学において様々な場面で登場するが、その場面には悲しみや寂しさのほかに喜びや敬意に至るまで様々な場面がある。そこを無理やり詳細に定義しようとすれば、表現はどどんどん言葉の本質から遠ざかるように感じる。それでもなお、あえてこの表現を「唐ごと」のように表現するとすれば、「色即是空」という表現か又は、「あるがままを受け入れる」という表現が合っているようにおもえる。 このように国学という学問から見つめる日本文化は、あるがままを受け入れて、そこから湧き上がる感情に素直に向き合うことではないだろうか。だからこそ神道には教義が存在せず、喜びも悲しみもむき出しの感情が表現されている。たしか茶道でも心の動きに素直に向き合うということを述べていたと思う。極論するともののあわれとは「これでいいのだ」の心に繋がるのではないだろうか。