今日は好日Vol.2
2023年 3月11日 心地よい怒鳴り声
変な趣味の話ではなく落語の話だ、とくに江戸の話には喧嘩の場面がよく出てくる。ところが、そのなかに出てくる、お互い啖呵を切りあう場面は、喧嘩における罵り合いを別次元の心地よい世界へと昇華させてしまうことが出来る。それが江戸の粋(いき)というものなのだ。
とはいえ啖呵に怒鳴り声と人を罵る言葉は尽きないので、これを気持ちよく聞かせることは口先だけの芸で収まるものではない。私は春風亭一朝師匠の啖呵を聞くと、本当に心が晴れ晴れする思いがする。それは江戸時代に暮らした庶民の真っ直ぐな心と、師匠の芸に対する真っ直ぐな気持ちとが重って生まれる芸なのだと思っている。そんな名人芸を参方一両損や、井戸の茶碗、芝居の喧嘩など、(落語研究会)での演目が私を楽しませてくれた。
これらの噺は、一見つまらない意地の張り合いのような喧嘩も、元をたどれば、縁もゆかりもないはずの他人の生活を思いやっての喧嘩なのだ。ところが、これらの話をさらに、ややこしくしているのは、そうは言っても、お互いの立場やプライドを捨てるわけにはいかないというジレンマだ。
どれほど大声張り上げての喧嘩でも、これほど繊細な心のやり取りが話の根底には流れている。 私は江戸時代には身分を超えてこのようなプライドの世界が存在していたのだと思っている。
またこのような意地の張り合いを成立させるためには、宵越しの金は持たないという、現代の福祉国家でさえありえない能天気な言葉が成立することにある。こんな言葉は、よほど庶民まで社会に信頼を置くことが出来なければ、ただのやせ我慢では生まれてこない。 果たして江戸時代を未開な封建時代と捉える現代人に「宵越しの金は持たない」などと能天気に啖呵を切って暮らすことなどできるだろうか。
いよいよサイバー攻撃は露骨になってきた。この状態が武装を放棄したもの愚かさだ、護憲を叫ぶ方はこれほどの横暴も無抵抗で凌げということなのだろうか?