今日は好日Vol.2
2023年 3月18日 業の肯定
昨日部屋の掃除をしていたら、引き出しの隅っこに、こんなものを見つけた。今から30年ほど前に購入したものだが、じつは2年ほど前に偶然見つけていたものだ。喜んでそのうちブログに載せようと思っていたら、そこからまた行方不明になっていたものだ。
実際いつ購入したものか、はっきりさせようと思いネット探索してみたが、結果にたどり着くことができなかった。記憶にあるのは、会場のエレベーターホールに設置された小さな物販コーナーで、そこは屋台のように枠で囲われていて天井から蛇腹の提灯が下がっていた。おそらく高座の合間に、そこで購入したものだ。
ところが、昨日まではどんな絵柄の手拭いなのかすら覚えていなかったのだ。
あらためて手拭いを広げてみて笑が、こみ上げてきた。そこに書かれていた文字が「落語とは人間の業の肯定」だ。私はこれを見て、このブログとの何かしらのご縁を感じざるを得ないということなのだ。間違った記憶かも知れないが、この時の演目は確か黄金餠だったと思う、落語の中でも、とびっきりグロテスクな噺だ。その噺が立川談志によって自分の記憶のように今も目に浮かんでくる、特に焼き場で骨を砕きながら黄金を拾うさまは、私にとって、あたかも実体験ような記憶になっているのだから、これが芸の凄さと言う他ない。
この公演があった当時、立川談志といえば落語家でもあり、もと政治家でもあり、マルチなタレントではあったが、一線を離れすでにやりつくした感のある存在だった。しかも当時の世間では、落語の世界で収まらず四方八方に噛みつく危険な存在としての印象もつよかった。
そんな噺の枕は、とてもお愛想を述べているようではなかった。しかもその佇まいは羽織にバンダナを頭に巻いて、お客の方を見るでもなく視線を落として腕組みをしながら無言で考え込む。しまいには頬杖をついて苦しそうに唸りだすという異様さだった。そこからやっと始まった話の内容も哲学的で随所に棘があった。たとえば、いぬごろしは放送コードに引っかかるが、人殺しと叫んでも問題はないなどだ。もし師匠が今もご健在であったら、さぞ世間を賑わしていたに違いない。
ちなみにこの日の枕も自分は、金持ちでその証拠に玄関には何本もの傘が溢れているといって始まった。
そんな師匠の噺の中で「落語とは業の肯定である」という格言が出来たのだと思うが、高座のどんな場面でそのように語られていたのかは、正直思い出すことが出来ない。とはいえ、そんな思いが今に至るまで、私の心に響いていたのは間違いない。私も落語とは言わず、笑いとは業の昇華だと思っている。人生に付き合っていると「もう笑うしかない」という切羽詰まった体験をする、すべての道が閉ざされたと思った瞬間に、だれしもそのような気持ちになるのではないだろうか。
私は正直こういう体験があまりにも多いので、笑いの世界が好きなのかもしれない。ところで私は、「もののあわれ」というちょっと文学的な言葉を、最近改めて意識するようになった。きっとこの笑いの世界も、このもののあわれに通じているような気がして私は意識的に用いようとしている。