令和 あくび指南
2024年 7月22日 持続可能ドラマを考える
最近テレビドラマが苦戦しているという。正直あまりにも突拍子の無いストーリー展開に視聴者がついていけないのだそうだ。そのため豪華な俳優陣やスタッフをいくらそろえても期待した視聴率には届かないらしい。それどころかSNSでは、ドラマの展開にもう付いていけないなどのコメントがあふれ出しているという。これまで視聴率によって制作側は番組の良し悪しを判断していたが、最近はSNSに立派なコメントがすぐ付くので、この点は制作側にとって良い環境といえる。ところが現実は提供する側と視聴者の溝は、逆に深まっているようなのだ。
とはいえ、私はこのような現象を見ても当然の事のように感じている。何を言いたいのかといえば、これまでマスメディアは、世の中を大衆文化から個人的な嗜好が優先される多様性の文化に目を向けさせてきた。要するにメディアがマイノリティーを追いかければ追いかけるほどマジョリティーである大衆とは溝を深めてしまうことになる。その結果生まれる価値観の多様化は、巨大メディアのような単一組織の倫理観とは相いれず、結局のところその存在価値は失われてしまうことになる。現在すでに広告会社の広告費は個人の制作する動画に移っている、これがまさに多様化がもたらした結果なのである。
ところが、このような状況になっていながらもメディア関係者の中には、いまだに、これを啓蒙活動のようにとらえる人がいる。残念ながら、このような考えが世間に登場したのは、たかだか100年ほどのことで、生命の歴史と比べれば、いまだチリほどの存在感すらないのである。つまりこれが人類の繁栄を約束する啓蒙と言えるかどうかさえ分かっていない考えなのだ。
改めて話を整理するとストーリーが多くの支持を集めるためには、人間として共有できる価値観が必要で、これまで人間はその体験によって人類共通の価値観を共有してきたのである。ところが今のマスメディアはその本質的な価値観を何とも掴みどころのない不透明なものにしようとしているのである。
具体的に言えば恋愛や正義感などそれまで大衆が潜在的に持っていた価値観を、マスメディアは自ら勝手に変質させてしまったのである。この状況を改めない限り世界の文化的娯楽はますます行き場を失い、挙句の果てには自分たちの存在価値まで根底から失ってしまうことになる。
因みに話は変わるが、私の好きなストーリーといえば藤山寛美氏の松竹新喜劇が浮かんでくる。子供ながらも土曜の午後はこれが視たくてテレビにずっとかじりついていた、特に与太郎のようなキャラの主人公がとうとうと正論を述べ、周りもその言葉を与太郎だからと蔑ろにせず、しっかり聞き入っているところが痛快だった。
結局のところストーリーに一本筋の通ったところがあれば、大衆は特に真新しいことがなかったとしても、大人も子供もそろって同じストーリーを楽しむことが出来るのである。そしてそのストーリーに輝きを与えくれるのが役者の仕事で、これを樹木に例えればストーリーは幹であり、その幹を支える根っこが人間本来が持つ共通の価値観といえる。つまりこれを腐らせてしまってはどんな木も育たないのである。