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令和 あくび指南

2024年9月12日gallery,ようこそ

2024年 8月5日 粋と野暮

これが馴染めなければ落語の世界は楽しめない。つまり落語の舞台でもある江戸っ子の倫理観はこれに尽きるのだ。では粋だ野暮だとは何かといえば、日本人の言葉ではないが「考えるな感じろ」と言うことになる。昔は子供の頃から近所の大人がいちいち子供の行動に口を挟んできた。そうやって日本の社会全体が秩序を保ち、今日まで世界に稀な日本の倫理観を形成してきたに違いない。

ところで気楽な落語の世界にも長年受け継がれてきた粋というものがある。これを文章にして書き出すなどはまさに野暮の世界で、要するに経験のない人は周を見渡して学べばいいだけの話で、高座に向かって口笛を吹くというのは、このように微妙な空気感を破壊してしまうことになりかねない。

さて今回放送された落語研究会はまさにこのように複雑な落語の世界を堪能できる豪華な回だった。

因みに私はこの演目を見て「待ってました」と叫びたくなるほど期待を寄せていた。そんな今回の放送は柳家喬太郎氏の普段の袴から始まった。この噺は短い話にも拘らずいつの間にか観客は氏ならではの世界に引き込まれてしまう。これはやはり新作や古典落語を自由に操る氏独自の世界と言えるのかもしれない。

次に登場する春風亭一朝氏は墨染の紗で着物から羽織まで決めていた。決めていたというのはサンゴ色の帯に紗綾型の手拭いが紗の着物から透けて見えるという身なりで、まさに夏の粋を表現していた。さて今回の演目菊枝の仏壇は、人間の心の機微と不条理を描いた噺だった。あらすじは、大店の息子が、望みの嫁を向かえたにもかかわらず、何故か3か月とたたぬうちに芸者遊びに興じ家を空けるようになってしまった。そしてその内、嫁のお花は病気を患い実家に戻ってしまう。ところがこの息子は相変わらずで、嫁の見舞いにすら行こうとしない。見かねた店主が嫁を不憫に思い嫁の実家に見舞いに向かったが、時すでに遅くその場で嫁のお花はこと切れてしまうのだ。

ところで、何故この息子は自分の嫁をここまで蔑ろにするのかといえば、このお花はまさに才色兼備の非の打ちどころのない女性だった。ところが、この息子が入りびたるようになった菊枝という芸者は容姿こそ瓜二つなのだが、お花に比べればむしろ取り柄の乏しい女だったのだ。つまり、この息子は、自分の嫁が完璧なるが故に息苦しさを感じていたのだという。

要するに息子の心の内を覗けば人の心の難しさがよくわかってくるのである。つまりロボットであれば性能の優れている方が勝るに決まっているのだが、人の情というのは不思議な動きをするもので、まさにもののあわれと言うしかない。このように複雑な思いがこの噺の登場人物それぞれに渦巻くのだが、これをどちらかに偏ることなく描き分ける力量が噺家には求められる。それにしても主が家路に向かう時のしんみりとした様子と店でのどんちゃん騒ぎのギャップは噺家の力量を見せつける物だった。

そして柳亭市場氏による殿様の将棋は、今世間の誰もが密かに望んでいる思いではないだろうか。よく通る声と活舌の良い話仕方にクライマックスのすっきり感は、観客を何とも爽快な気分にさせてくれる。

さてこの放送のトリになった入船亭扇辰氏の団子坂奇談、この時期ぴったりの怪談話だが、落語家の話す怪談にはどれほど怖い話であっても、やはり親近感を感じてしまう。とはいえ怪談はやはり怖がってもらわなければ、怪談の楽しみは半減してしまう。この点扇辰氏の噺は話の後半に蕎麦屋の娘が真夜中にじっと外の様子を窺う表情に、この世の者とは思えない凄味があって、普段の飄々とした表情からの豹変ぶりに肝を冷やした。

さて落語にはありとあらゆる感情の動きが含まれ、それを十分楽しむためにはかなり繊細なニュアンスを観客は汲み取る必要がでてくる。そのため、これほど繊細で多様な感情表現を受け取るためには、観客と噺家の心が一つになっていてこそ可能になるのだと私は思っている。それがいわゆる言葉にはならない粋というものではないだろうか。

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Posted by makotoazuma