令和 あくび指南
2024年 8月11日 蓼(タデ)喰う虫も好き好き
日本人は昔から人の好みは様々ということを表現するために、これほど婉曲な表現を用いてきた。蛇足ながら関西では鮎の塩焼きをいただく為に河原に生えるこの草をお酢に混ぜて香り付として使う。そうすることによって油の強い鮎もスッキリ飽きずにいただけるのだ。とはいえこの草はそれだけで食べると青臭く辛みがあり、誰れでも食欲が湧くというものではない。要するに使い方次第ではせっかくの鮎も台無しになってしまうのだ。などとわざわざウンチクを述べなくとも、こんなことは誰でも知っていることだろう。たとえ知らなくても鮎の塩焼きが食べられないというものでもない、むしろ知らなくて何が悪いというレベルの話しだ。では何故私がこのようなテーマで記事を書こうとしたのかといえば、最近の世の中は、解説を付けなければ一般人が理解できないことが多すぎるからだ。このことは人間社会から常識というコンセンサスがどんどんなくなってきているからだと思っている。とはいえこんなことは私のように常識を外れることが生業と考える人間が言うことではないように感じるのだが、だとしてもそれとて社会があってこそのものだと思っている。
さて今回のオリンピックの開会式は特に象徴で今でもその評価は荒れている。というのもこれほど世界中から非難の向けられている開会式なのだが当事国ではそれほど奇異な開会式には感じられていないらしい。つまり今世界中のコンセンサスがいま大いに揺らいでいるということなのだろう。ではこのままこのコンセンサスが崩壊してしまったとすれば、次に何が起こるだろうか、それは世界秩序の崩壊につながるだろう。ようするに法律の基本である公序良俗という認識が世界中で廃れてしまえば、世界は共通の価値観で繋がることは出来なくなる。
因みに今回のパリオリンピック開会式における気の滅入る演出について、フランス哲学者の言葉によると、これを評価しないのは、観客がフランス文化に無知なのだと公言している。それとは逆に私はこれを哲学者の肩書で記事にするのは哲学に対する配慮に欠けるのではないかと思っているのだ。というのもこの記事の筆者がこの記事で述べている通りこの演出は極めて悪魔崇拝的な表現に満ち溢れているからだ。私は全世界から最高峰の選手を集める場に、悪魔的なものを国として表現するのは常軌を逸していると思うのだ。そもそもこれはオリンピニズムの唱える教育的価値、普遍的、基本的、倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造を表現したものではないだろう、つまりフランス一国の考えを全世界に押し付けているのではないだろうか。
しかもこれらの非難を決定的なものにしているのが最後の晩餐をちゃかしたシーンで、これに対しバチカンから非難されるのは当然のこととして、このことに思いが至らないのは、この人たちは、すでに共通の価値観から離れてしまった人たちなのだとしか言いようがない。私がここで共通の価値観に拘るのはあらゆる宗教が示す平和への願いに私も共感しているからだ。つまり相手の価値を認め、尊いものの前ではすべてが平等であるという価値観を誰もが共有しているのだと私は思っている。私はそのような人間の本質を探究することで人間の繁栄を可能にしていくことが、本当の哲学ではないかと思っている。目の前にぶら下がった人参をただ追いかけることが、まともな哲学といえるのだろうか。