令和 あくび指南
2024年 10月30日 百聞は一見に如かずなのか?
財布の中身を見て無を感じる人もいれば、座禅によって無を体感する人もいる。どちらも無を体験したことに違いはないと思うのだが、そこにはどうしても経験や知識による味わいの深さが違ってくる。それは陶芸や書の世界に限らずあらゆる世界に通じることなのだ。
ということは、このブログでもよく使う鑑賞者がすべての価値を決めるというのはこのような意味も含まれてくる。つまり鑑賞者の鑑賞眼によっては、相当な価値を含む物もこれにより失われてしまう可能性も十分あるということだ。因みに昔から百聞は一見に如かずという言葉がある。ところがこの言葉を絵画の鑑賞の世界に当てはめると、そうとも言えなくなる。特に現代アートなどの美術の世界では、日常の感覚のままで鑑賞に臨むことはむしろ不快な体験となってしまうことも珍しくない。というのも過去の美術史を辿れば新しい美術の潮流が生まれるたびに、社会には不穏な空気が巻き起こっていたからだ。それほど表現の力が強ければ強いほど、社会との隔たりはどんどん開いてしまう。
さて先日、高階 秀爾氏の訃報が流れ、現在日本の美術界は哀悼の思いに包まれている。とはいえ私にとって高階氏は日曜美術館でよくお見受けするゲストコメンテーターという印象が強く、そこで得た西洋美術の知識が私の知識のほとんどを占めている。というのも私はこの番組と出会った頃を振り返ると、最初の放送の記憶はハッキリしないが次世代のキャスターが藤堂かほるさんというイメージは今でも残っているので、この番組とは少なくとも1980年以前からのお付き合いであることは間違いない。つまり50年に渡って私に西洋絵画の知識を提供していただいたことになるのだ。
結局このような下地があって、私はシュルレアリズム絵画や抽象芸術を、いまでは何の抵抗なく受け入れることが出来ているのだと思っている。確かに絵画作品の鑑賞といえば一見のことかもしれないが、よくよく自分のことを振り返ってみると、このような下地となる百聞の知識を仕入れていたからなのかもしれない。おそらく作家と鑑賞者が同じ地平で対峙するためには、それを繋ぐ適切な言葉の架け橋が必要なのではないだろうか。