令和 あくび指南
2024年 11月6日 誠ちゃんの中のまことちゃん
昨日楳図かずお氏の訃報が流れた。楳図氏といえば漫画のまことちゃんを思い浮かべる方が多いこととは思うが、私にとっては圧倒的にホラー漫画のイメージが強い。というのも私が漫画というものを手にしたのは、半世紀も遡らなければならない、当時の週刊誌は紙質も悪く表面をなでるとざらざらしていた。そんな紙を束ねて、発刊日の書店には分厚い週刊誌が積みあがっていた。あの当時、週刊漫画の読者を騒然とさせたのが、少年サンデーに連載された漂流教室だった。当時まだ小学生だった私は、遊び仲間とこの話題でもちきりだった。なにせあまりにも、絵が怖くて次のページがめくれないという噂が立つほどだった。確かに強烈な陰影によって表現される恐怖の演出は劇的でいつまでもその恐怖を曳きづってしまう怖さがあった。
楳図氏の作品といえばそんな恐しい印象が先になってしまって、後に世に出る、まことちゃんの愛らしい姿もページをめくる度に何かしらのハプニングに身構えながらギャグを楽しむという印象だった。ギャグマンガといえば赤塚藤を想像するが、氏のギャグとは明らかに違う方向性の笑いなのら。
とはいえこの時代の漫画家が放つ個性の強さは、そのまま作画による個性の違いにも感じる。要するに絵のタッチが個性的で現代作品にはない味わいなのだ。たとえば、松本零士、モンキーパンチ、ちばてつや、白戸三平、水木しげる、例を挙げればきりがない。そしてそのいずれの作家も唯一無二の世界観を表現しているのだ。何故これほど百花繚乱の個性が当時、一時に花開いたのかと考えれば、恐らく現代使われるデジタル技術では表現できないローテクの成せる業なのだろう。とはいえ現代のようにストーリー展開全盛期の現代では、これらの個性は無用の長物になるのだろうか。
私のような古い人間は、動的ストーリー展開の魅力もさることながら、静的な絵面の個性に動かしがたい魅力を感じる。今では動体視力の覚束ない私にとって動画より紙芝居のほうが味わい深いという事かも知っれない。
別れの続くこの頃ではあるが、今日山上大神宮を参拝した折、朽ちた切り株の中から新しい枝が伸びてきているのを見つけた。時代の切り替わりは、命があってこそ繋いでいくことが出来ると思うのだ。