令和 あくび指南
2025年 12月6日 アイヌとエミシ
アイヌは北海道の土着民俗と知られているが、エミシという言葉は漢字になおすと愛瀰詩、後に毛人あるは蝦夷とも書かれる。さて現代に生きる我々は蝦夷と書かれていれば、その字は「えぞ」と読み、それが北海道を意味することを疑う人はいない。
ところがこの蝦夷という言葉にはもともと侮蔑的な意味が込められていて、これに倣えば蠣崎波響の描いた夷酋列像の夷酋という題名にも否定的な意味が込められていると言う事を公言される方がいる。つい先日、私は偶然耳にしたラジオ番組で、立派な肩書を持つ方が、このようなアイヌの風俗画をさして、彼らはわざとアイヌを気持ち悪く描いていると仰っていた。そんなことを言ってしまえば、雪舟の人物画はおろか、東洋の人物画はすべてこのような見方になるのではないかと心配になってくる。
因みに、今、何故私がこのようなことを言い出すのかといえば、昨日道立函館美術館で蠣崎波響の展覧会を見てきたばかりで、その見事な画力には驚嘆する思いなのだ。残念がらこの展示に夷酋列像のは無かったが、その分、蠣崎波響の画力がどれほどのものだったのか、視野を広げて見分することが出来た。そこから感じられたのは、蠣崎波響は優れた描写力を持ち、その画力は応挙に引けを取らない一流の絵師っだったという印象だ。しかもその才能は画業ばかりに留まらず、その多才さは、西洋のベラスケスやルーベンス並の活躍を彷彿とさせる。
というのも、松前藩の家老だった蠣崎波響は、当然、この絵に幕府や藩の思惑を込めていたはずで、だとすればその思いを探ることが重要になるのではないだろうか。問題はこの絵が、アイヌを侮蔑的に表現したものかどうかなのだが、絵を見る限り飛び切りの衣装を身につけ、役者さながらにポーズを決める姿にそのような侮蔑的意味合いを見つけることは、むしろ無理に近い。私があの絵を見て受ける印象は彼らへのリスペクトであり、対等な立場の存在であるという印象以外ない。そしてこの絵は、日本がとるアイヌ民族に対する当時の認識なのだ。これは私の想像でしかないが、幕府は彼らを日本に土着する民族として世界にアピールすることで、彼らの生活圏とする樺太やその周辺地域も日本に繋がる領土であることをアピールしていたのかもしれない。
このことは、全国に足跡だけが残る縄文人とは対照的で、幕府としては縄文人のように和人との同化をさけて、その存在を際立たせ日本人として共存していることを世界に知らしめる必要があったのではないだろうか。因みにこの夷酋列像は、何故か一度日本から姿を消し、その存在が発見されたのは、フランスのブザンソンという街だったという。
このことは当時江戸幕府が陸軍の近代化に着手したさい、その手本としてフランスから軍事顧問を招き、日本から使節団を送っていることからも理解できる。今でも陸自の行進曲は抜刀隊であり、その作曲者はシャルル・ルルーというフランス人なのだ。