新日本を護るために
2025年 1月18日 命
その存在に気付くと、これを失うことの恐ろしさに愕然とする。とはいえ実際の所これを失った人でなければその本質を体感することは出来ないだろう。しかしながら世の中にはこの恐怖に打ち勝たなければ目標を達成することは出来ないという究極の生業がある。それが軍人や武人というもので、だからこそこのような立場にある人を世界中のどの国も貴族などの高貴な存在として認めてきた。
とはいえ、命がけの仕事といえば警察や消防という組織も当然命がけの仕事になるのだが、軍人となれば対峙する相手が、武装してこちらの命を必ず狙っているという異常な環境になる。ましてや平和が常識という日本の社会生活ではあまり馴染まない存在に映るだろう。
とはいえ、いまの世界情勢を見れば世界中いたるところで戦争が起こり、隣国で起こっている大統領逮捕の事件は、まかり間違えば地図が塗り替わるほどの事態に発展しかねない。しかも今日本人が当たり前と思っている路面を覆うアスファルトも衣服を作るナイロンも、はたまた電気やガスなど現代生活を支える原材料を日本は遥か彼方にある産出国に頼っている。問題はこのような原材料を安全に日本まで運ぶためには、今のところアメリカの軍事力に頼りっぱなしの状態にあることだ。
何を言いたいのかといえば、我々日本人が当たり前のように消費しているほとんどの物が、アメリカ人の命を危険にさらしながら、ようやくもたらされていることを忘れてはならない。つまり戦後の日本においては、アメリカ軍によって日本のライフラインである中東からのシーレーンは維持されてきた。そしてこれが大袈裟でないことは、昨年スーダンで起こった内戦において日本国憲法や自衛隊組織のままでは物資どころか海外在住の邦人救出すらままならないことが浮き彫りになっていた。ところがこの事実を目の当たりにしていながらも、いまだに憲法改正に何ら意識の向かない日本人は呑気と言うより家畜の平常心とでも言いたくなってしまう。
結論を言ってしまえば、軍隊イコール戦争という考えは改める必要があるのではないだろうか。というのも今世界で起こる紛争のほとんどが軍隊同士の衝突というよりは国籍を持たない武装組織によって引き起こされている。しかもそのような武装集団が生まれる背景には貧困による反政府運動がそのきっかけとなる場合が多く、その存在が表面的に認識されることが極めて難しく、ようやく世間で認められる頃には警察で手に負えない状態になっている場合が多い。結局このような組織と対峙できるのは世界の常識として国防軍しかないのだ。
しかも現在政権交代するアメリカは、その政策の中心に政府効率化省を据え場合によってはペンタゴンに対しても相当な見直しをせまる可能性がある。ここでもしアメリカの駐留軍について見直しが検討されるようなことがあれば日本のシーレーンは嫌でも自国のみで守るより他なくなるのである。このようなことは様々な予算を牛耳る今の政府が当然予測していなければならないことであり、防衛通なのであればいち早く国民に憲法改正の理解を求める必要があったはずだ。
とはいえこのようなことを書けば私が戦争を肯定しているように受け取られるかもしれないが、正直それも致し方が無いことだと思いながらこの記事を書いている。私は理想を失うことはしたくないが、だからと言って目の前の現実に対し何ら前向きな取り組みをしないのも可笑しなことだと思っている。というのも戦争という究極の選択肢に至る前には、それに繋がるサインや訴えが起こっているものなのである。
本来ここでその訴えと真摯に向き合い解決を図るのが対話による平和な解決だといえる。ところが「戦争止めろ、ロシアは出て行け、平和を守れ」のシュプレヒコールを繰り返すだけでは、むしろ、話し合いによる解決を諦めさせてしまうに等しい。つまり相手の立場を理解しようとしないのであれば、話し合いなど出来るものではないのである。結局こうなれば話し合いの解決を諦め、自国の国益を護るためには軍事的解決を試みるしかないことになる。
さて今日この記事のタイトルを命としたのは軍人という立場は、基本的に命の取りあいという極限の状態に追い込まれることになる。私はこれを乗り越えるための精神的支えが愛国心だろと思うのだ。ようするにこのような任務にあたる人は自分の命を失う可能性を厭わず国防のために志願してくれた人たちなのである。だとすれば日々の暮らしを平和に過ごす我々は少しでも彼らの思いに報いたいと思うのである。そのために銃すら手にしたことがない我々にとって、彼らのためにできる事があるとすれば、それは彼らの存在が正しく日本国民に理解されることではないだろうか、そのためにも国連憲章に謳われる国家主権、国民の生存権を護る国軍として、彼らは日本国憲法に明記される必要がある。