新 思考ラボ
2025年 1月30日 AIの創る未来
先日deepseekという中国企業のAIがアメリカのAIより10分の一のコストで生成AIが可能になると発表しエヌビディア株が91兆円値下がりしたという。あっという間に日本の国家予算並みのお金が吹っ飛ぶのだから株取引はまさに魔物だ。こうなると大統領就任式に参加した孫氏の98兆円はどうなるのかなどと考えてしまう。さてとんでもないお金が動くAI技術だが、なぜこれほどのお金が動くのかと考えれば、未来社会はこのAI技術に支えられることはほぼ間違いないからだ。ではその様な未来では具体的にどのようなことが起こってくるのだろうか。
今日はそのようなテーマをぼんやりと考えてみたい。さて考えを進める前にAIに対する私の知識はデカいコンピューターがとんでもない量の情報を集めることで、様々な事がらの最適解を得る技術ではないかと思っている、要するに私に専門知識は全くないのだ。これから綴るのはそのような人の文章なのである。さてそのような立場の人間から見ても、最近のAI技術の進歩は目覚ましい、最近ブログの記事にも記したが、人間らしさの真骨頂とも言える芸術の分野でさえも、AI技術はすでに侮れない存在になっている。
そこでAIによる未来ではどのようなものが姿を消すのか考えてみると、真っ先に思いつくのは戦争と労働だろう。つまりAIが物事の最適解を求める技術だとすれば、不合理の塊である戦争はまず初めに世の中から姿を消すだろう。私がそう考える根拠は、現在の戦争ではドローンや無人機が活躍する場面がどんどん増えている。現在はこれらをリモートで人間がコントロールしているが、早晩それぞれの兵器にAIが組み込まれ自立した兵器になるだろう。こうなれば、わざわざ現実の世界を戦場にしなくても仮想空間で繰り返されるシュミレーションと何ら変わりが無いことになる。つまりシュミレーションで結果が分かるのであれば現実の戦闘行為に何の意味があるだろうか。
さらにAIと共に開発が進むロボット技術は現代社会における肉体労働の価値を失わせてしまう。しかもこれまで最も高度で重要な知的労働とされる司法にしろ行政にしろ、現在の絶望的な混乱を見れば、これこそAI技術で代替えできれば、どれほど公平で合理的な世の中になるだろうと思ってしまう。もし本当に未来がこのような事に成れば、早晩人間は生まれながらにAIに依存した生活をするようになるだろう。つまりゆりかごから墓場までAIが付き添うのである。こうなればもはや義務教育という概念すら消えてしまうのではないだろうか。ようするに知識など苦労して身につける必要はなくなるのだ。
私はこれで夢のような明るい未来がくるというよりは、逆にパラダイス25というネズミの実験を思い浮かべてしまった。これは鼠の生存に必要な条件を全て満たした鼠のパラダイス創った場合、そこに置かれた鼠はどうなるのかという実験のことだ。その結果は想像以上に悲惨なものだった。というのもその鼠たちは一定期間個体数を増やし続け繁栄の頂点を向えた後、その数を徐々に減らし始め、結局すべての鼠が実験場から消滅してしまったのだ。しかもこの実験は25回も繰り返されたにもかかわらず、結果はすべて同じだったという。
これはネズミの実験だが、人類もこのような道を辿る可能性はないだろうか。とはいえ人類の場合このような流れになる前に、私は何とか違った道を歩んで欲しいと願うのだ。そこで私が期待するのは、人類にはもともとある生存本能とは別に、合理性とはかけ離れた不思議な感性が備わっていると感じている。
どういう感性かといえば、具体的に交響曲の演奏会でフルトベングラーの指揮するベートーベンとクナッパーブッシュのベートベンでは同じ譜面にもかかわらず聴衆の好みはハッキリと別れてしまう。ところがAIはこれに倣うように演奏を微妙なニュアンスで変化させることは出来たとしても、聴衆が持つ好みを答えとして導くことは出来ない。つまり人間に残された世界とは衝動的ともいえる感情の世界で、しかしながらこのような感性はいわゆる価値としては置き換えが出来ないものだ。あえてこれを表現する言葉があるとすれば、それは趣味性という言葉ではないだろうか。つまりAIが創り出す世界においても人類に残された世界があるとすれば、それはもはや価値を求める対象ではない。むしろ定義することすらできない好き嫌いなどと云う、もっとも原始的な衝動に向かう世界ではないだろうか。
恐らくAIにより生命維持の脅迫から解放された人類は、このような趣味によるコミュニティーで繋がっていくのかもしれない、だとすれば今の内から趣味人の感性を磨くしかない。「人類ご隠居化計画」今なら、もれなくAI助さん格さんが付属します!