新 思考ラボ
2025年 8月6日 核配備を考える
近年右傾化の流れを強く感じる日本だが、右傾化とは何かといえば、これを好ましく思はない人達はこの動きを粗野な大衆に迎合するポピュリズムと表現する。私などは昨日も述べた通り民主主義の根幹である国民ファーストの考えだと述べた。そしてこの核配備についてもこの延長線上で考えられることが多い。要するに核配備は最も効率的な国防であるという考え方だ。しかしながら私は国民ファーストの政治には賛同できるが、核配備がどうしても必要であるという考えには甚だ疑問を持っている。
この考えを持つ方は、核兵器が通常兵器の何百倍の破壊力により短時間でその影響を及ぼすことが出来ると考えている。そのためにこれを使えば通常兵器にお金をかけるよりも戦争に至る抑止効果は高いのだという考え方だ。確かに戦闘機や軍艦、戦車に掛ける費用は日常品の価格とはけた違いで、これを運用する人件費を加えれば防衛費に掛けるコストは想像を絶する額になる。まして、これまで空母打撃群など保有したことない日本の現状を考えれば、周辺国と軍事力の均衡を保つためには致し方ないと考えるのも無理はない。
さてここで問題になるのが、本当に核配備はコストに見合う抑止効果を得られるのかといえば、これからこれに至るすべての環境を整えることはかなり大きなハードルがある。例えば予算面だけで言えば、すでに周辺国に配備されている核兵器の数とこれから抑止効果が見込めるまで、どれほどの核配備が必要かを考えるだけでも気が遠くなってしまう。またこれは数量の問題だけではなく周辺国が、途方もない領土を保有し核攻撃を想定した避難設備をすでに整えているとしたら、今からこれに追いつき抑止力の均衡を図るというのは絵空事に近い。
では、限られた予算でこの現実と向き合うために日本が対応できる方法を素直に考えれば、このような有事に至らない為の外交と万が一日本が核攻撃を受けた場合、日本国民がこの攻撃からいかばかりかでも生き残れる方法を探した方がより現実的だろう。
例えば今のところ日本には核攻撃を受けた場合の避難設備が全く用意されていない。一時的に地下鉄などの施設は避難施設として使用することは可能に思われるが、その出入り口には放射能などを防ぐ機能は持っているだろうか。また、近年目覚ましい発展を遂げるレーザー兵器はすでに実証段階にあり、ここに予算を集中させ防空能力を高めることは、これから核配備の為の研究を始めるよりもより現実的なことのように思える。
いわんや現代の戦争形態を見れば、国同士が宣戦布告して武力衝突に至っている例はほぼ存在しない。ことが進んで止む負えずというのが現状だろう。つまり、当初はテロや小競り合いのような極めて限定的な武力衝突がいつの間にか抜き差しならない状況にいたり、そこから国同士のプライドをかけた全面戦争に至ってしまうという流れを感じる。このような戦争に至る状況を分析すれば、いきなり核戦争の緊張が高まるという状況は極めて可能性が低いと言わざるを得ない。
次に核配備についての最も深刻な影響は、日本人の良心についてだ。核攻撃といえば、その性質上敵味方を識別して攻撃することは出来ない。このため宿命的に核兵器は武器を持たない市民を攻撃の的にしてしまう。こんなことは、どれほどの理由があるとしても許されるのだろうか。というのも私は近代の常識とされる総力戦という考えにはどうしても馴染めない。私は武器を持たないものに対する武力攻撃は虐殺として非難されるべきだと思っているからだ。つまり、80年前の今日起こった広島への原爆投下は間違いなく虐殺行為であり、この後起こる長崎への原爆投下にしても決して認めることの出来ない人類の恥ずべき行為だった。
確かに、日本でも核兵器の研究は行われていて、このことは私も身近な事実として認識しているところだ。そればかりか日本人初のノーベル賞、授賞者湯川博士の研究が核兵器の根幹にあたる研究だったことも皮肉に感じる。こんなことから日本が世界に先駆けて核兵器開発に成功していたという話はまるで都市伝説のようだ。中でも日本はすでに完成していて、その兵器の使用を、昭和天皇が許されなかったという話は、この話信じるかどうかはあなた次第かも知れないが、「もって万世の太平を開かんと欲す」という詔勅にその御稜威は含まれているのではと想像してしまう。
しかも改めてこの兵器の異常さを考えれば、この兵器は目的のためには敵も味方もなく一瞬にしてすべてを焼き尽くすという善悪の仕切りもない邪悪な兵器なのだ。これは当時広島にはアメリカ軍捕虜が存在しており、このことはアメリカ軍も把握していたという資料が見つかっている。つまり広島でこのような兵器を使えば、捕虜となっている彼らの命もすべて失われてしまうことは容易に想像がつくはずだ。さらに言えば、通常の戦闘には加わらない女性や子供まで、或いはまた、神の道を説く宣教師までが容赦なくこの犠牲になってしまった。私は、未来永劫このような非道を認めるわけにはいかないと思っている。つまり、いかに自分たちの生存が脅かされたにしても、このような非道により戦いを避けようというのは、何ともあさましい思いがしてならないのだ。