新 思考ラボ
2025年 12月24日 影と真実
先日新美の巨人という番組で藤城清治氏がテーマになっていた。私の子供の頃の記憶からとにかくあの影絵のイメージが離れない。ところで氏の創り出す小人のキャラクターもファンタスティックで魅力的なのだが、それだけであの不思議な世界の魅力は語りつくせないだろう、というのも私には影絵という間接的な表現に人の心を魅了する、根源的な何かが存在しているように感じてならないのである。
例えば影の例えとしてプラトンの有名な洞窟の比喩がある。もし人間が影しか認識できない環境で暮らしていたとすれば、影こそがその人間にとっての実態になるという比喩なのだが、そもそも影には真実の世界に通じる何かが存在しているように思えてならない。
というのも影絵といえばインドネシアのジャワ島やバリ島に伝わるワヤンクリという影絵芝居が有名だが、ここで扱われる物語は「マハーバーラタ、ラーマーヤナ」など神話に基づく叙事詩が扱われているのだが、このことは古代から人間にとって影というものは神の世界に通じる現象として捉えていたのではないだろうか、つまり影絵芝居は単なる娯楽という側面よりも神事としての色合いが強いのではないだろうか。
そこで改めてその効果を見てみれば、影絵は知らず知らずの内に鑑賞者の記憶に深く刻まれ、それを見た時の様々な感情を呼び起こすスイッチになる。おかげで私にとって杜子春や蜘蛛の糸などは芥川文学としての印象よりもTVで放送された影絵のイメージなのだ。
さて問題は影絵が何故それほど人々の心の奥底にしみこむ力を持つのかと言う事だ。私はこのことも影という現象は物事の本質により近い存在だからではないのかと思っている。要するに3Dの世界とは3Dの物質が存在しているのではなく、2次元を時空間という認識よって創り出す幻想ではないのかというものだ。そう考えれば光と影が織りなす影絵の世界は神の存在する絶対的世界なのである。つまりそれは、常世の世界であり、我々が現実と認識する3次元世界こそ、うつしよ(現世)と呼ばれる幻の世界なのではないだろうか。