続 盾つく虫も好き好き
2026年 4月25日 公共の福祉
天下御免の向こう傷
何故日本人はブリーフを履かずに往来を歩けないのか、或いは何故人前で電信柱に立小便が出来ないのかを考えてみるとそれは表現の自由より公共の福祉が優先されるからに違いない。つまり往来は日本の社会全体で使うものであり、電信柱については、その所有者だけではなく、そのような行為者を見て不快に思う人達の気持ちを法律は思いやるからだろう。そんなことは子供でも分かる話だと思うかもしれないが、恐ろしいことにこんなことを、立法府に席を置く国会議員が理解していないようなので心配になる。
現在日本の法律では勝手に他人の所有物を損壊させた場合は刑事罰を受ける。このことに誰も異論はないと思うのだが、物理的な破壊の他にも、相手のプライドを傷つけた場合もまた名誉棄損で罪が問えるのだ。では国家の名誉を傷つけた場合はどうだろうか、急に話が大きくなるが大概の場合その罪は重くなるはずだ。例えば外観誘致罪などは、これに該当すればその刑は死刑に決まっている。それほど国家を巻き込むような事案は重い扱いを受けるのが常識なのだ。
さて、私が今問題に思っているのは日本の国旗についてである。又かと思うが、こんなことすら日本では国会議員を挟んだ大問題になる。つまり自国の国旗より基本的人権に含まれる表現の自由は保護されるべきだという考えだ。このような発言に冷ややかな視線を送るのが、右寄りの考えの人達で、このれこそグローバリズムの発言だとらえているはずだ。これが困るのは、この言葉を突き詰めていくと結局アナーキズムにいたり、国家など糞くらえという表現になるのではないだろうか。確かに表現に制約を設けられるのは表現の可能性を奪う事になるので如何なものかという思いになるが、だからと言って誰もが不快に思うものを公共の場に陳列する自由はないだろうと思うのだ。
因みに私がこのことで最も腹立たしく感じるのは、このようなことを公言しているのが、ミュージシャンやアーティストではなく立法を生業とする国会議員であることだ。つまり国家を背負わなければならない立場の人間が日本の国旗や国歌に対し何ら愛着を示さないのでは納税者の立つ瀬がない。しかもその一人が前政権では外務大臣だったというのでますます寒気がしてくる。私のようなものが言うのも恥ずかしいが、国旗というのは歴史的にも国家を象徴することを前提に創られたものであって、このことは国際儀礼を何より重んじる外交そのものといえるだろう。今更ながらではあるが1999年に日本ではすでに日章旗は法律で国旗と定められており、これを毀損する行為は法律的にも国家の名誉を傷つける行為に他ならないのである。
それにしても国家の体裁もそれを定めた法律にも全く関心を持たない国会議員の存在には恐怖を感じる。一体彼は度重なる外遊先でどんな甘い夢に浸っていたのか、それにもまして、これほど興味深い取材対象があるのにマスコミの興味をまったく惹かないのは何故だろう。