彼岸旅行
イトが消えた
私は、ジャケットの袖が地面に引きずられているのを感じながらも、今起こっていることを理解しようと努めた。
いままで自分の背中にのしかかていた重さも、息遣いも、腕が首にまとわりついて擦れる痛みも、ほんの一瞬で消えてしまった。そう感じると、胸を締め付けられるような寂しさを感じていたが、その内先ほどの囁きが、胸の奥からはっきりと聞こえて来た。
「ありがとう」その声は確かにイトの声だった。その声が聞こえると同時に、私の胸が熱く火照るように感じた。以外にもそれは、自分が今まで感じたことのない静かな満足感だった。そしていままで心の奥底にベッタリと張り付いていた不安や焦燥感から、自分の心がどんどん解放されてゆくのを感じていた。このことは自分の魂が本来の力を取り戻していくような、エネルギーの充足を感じさせてくれた。
イトは誰
冷静になって振り返ると、イトっていったい何だったんだろう。私が薄々気づいていたのは、おそらくイトは子供の頃の自分だろうということだ。それは、大人になった自分にはすでに返りみられることも無くなった私の切ない記憶に違いなかった。 あの頃の淋しかった思いや叶わぬ望みがイトとなって自分の前に表れていたのだ。
やっと、その思いが満たされたことによって自分の魂と、やっと統合することが出来たのではないだろうか。だから、突然姿を消したとしても、私には、喪失感より、魂が満たされる思いが強くなっているのではないだろうか。
これが、イトに対して私の導いた答なのだが、そのことをどうにか確かめようと、私は出会いから今までのことを振り返っていた。特にイトの履いていたズボンの膝あては、自分にしか辿れない記憶だったので、その思いは間違いなかった。たどったのは自分の記憶だけではなかった、私の身体的特徴である旋毛が2つあることも、イトと一致していた。途中アニメの話題が合わなかったのも、イトには私が子供の頃に見ていたTV番組の記憶しかなかったのだ。
ところでここまで振り返っても、私には、まだ納得のいかない疑問があった。それは何故イトは滝を見たがったのかという疑問だ。たしかに滝を見たことで彼の気持ちは満たされた。ということは、そのことは、まぎれもない私の子供の頃の思いだったはずなのだ。
ところが私は、今まで滝が見たいなどと思ったことは一度もなかった。いやなかったはずだ。
ではどうして子供の頃の私であるイトは滝を視たいなどと言い出したのか。
可能性として考えられるのは、私自身が自分の記憶を封印してしまったということだ。そこにはきっと深い秘密があるに違いない。