今日のできごと
2021年 9月11日 承認欲求という罠
罠というと悪いことのようですが、人間様にとっては当たり前のことです。何故そんな欲求が湧くかといえば文明の持つ必然のようなもではないでしょうか。本来の承認欲求とは親子の関係であり、群れとのかかわりが承認欲求の元になっていると思います。もっともすさまじいと思う例が、ペンギンの親子間です。親鳥は餌を探すため一度子育ての集団に自分の子を残し、真冬の南極で餌を求めて幾日も狩りをします。そして何千羽もいる集団の中から確実に自分の子供を見つけて餌を与えます。
テリトリーの限界
また、群れを作る動物の中でも自分の立場を確立させるために群れと自己の承認は命がかかわる欲求なのですが、動物の場合はここまで、という仕切りがしっかりあります。問題は人間の場合はこれで済まないところです。人間の場合情報量も情報を伝達するメディアも多岐に渡ります。そのことによって動物であればテリトリーの中で完結すればそれでおしまいのはずが人間はそれで収まりません。
言葉が生み出す世界
その厄介な現象の元になっているのが言語です。今時コミュニケーションという言葉のほうが平易に受取られると思いますが、ここから思考が始まり想像の世界が生み出されます。ヘレンケラーが受け入れた「物にはすべて名前がある」という皮肉のようですが、すべてはここから始まります。本来生き物は食料を確保できる範囲がテリトリーのはずが、食料以外のことにまで意識が向かってしまいます。さらに人間の困ったところはその意識に限りがないということです。
ではそのような不条理と如何に向き合うか、そこに真実と向き合う知恵が必要です。今この世界を見渡して不条理と感じている方、2500年ほど前にもこのことに気づき答えを見出された方がいます。この無限の不条理と共に生きるために真実に触れ、そこからもう一度この世界を眺めることが出来れば、不条理の連鎖から一時離れることが出来ます。そうお釈迦様が気づかれた世界、気になりませんか。