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今日は好日

2022年12月3日gallery,今日のできごと日々のブログ

2022年 4月25日 啄木の歌碑

先日の投稿では、まだ蕾の桜も多かったのですが、いよいよ見ごろが近づいてきました。実は先日面白いものを公園の中で見つけました。それが下に載せた歌碑です。公園を散歩していたらタクシー運転手さんが携帯電話で、歌碑の前にいるという言葉が聞こえてきました。その言葉が耳に残っていて確認してみると石川啄木の歌碑でした。「函館の青柳町こそ悲しけれ友の恋歌矢車の花」という歌です。有名な歌ですがその歌碑がここに在ったとは知りませんでした。近くで歌碑の字を見てみましたが、写真の通り薄くなっていて肉眼でも読み取るのは大変です。

 

ということで石川啄木は青柳町のいったいどの辺に住んでいたのだろうと気になり、調べてみると公園のすぐ近くに住居跡があるようです、帰り道に寄ってみました。啄木が来函したのは明治40年だそうです。当時は区立弥生小学校の代用教員を務めていたそうなので、ついでにご案内出来そうです。

さて石川啄木ですが函館への憧れが強く函館にて死ぬ覚悟で赴いたのですが、着任早々、待遇改善のストライキに参加して職を辞すことに成ります。更には函館大火で焼け出され、ついには住居にも困った状況になったようです。当時22歳で妻帯し、享年26歳の生涯ですが、函館に滞在したのは132日間です。そんな短い期間にもかかわらず、これだけの足跡を残されました。いったいどれほど駆け足の生涯だったのか、もともと岩手にある曹洞宗の僧侶との間に出来た子供のようですが、当時は僧としての妻帯は憚られる時代だったようで、最初はシングルマザーの境遇だったようです。また幼少のころから健康にも恵まれず幼少期からの苦労は相当なものだったと思います。

もともと文才には恵まれてはいても教育という括りにはなじめず、いわゆる学歴というものがありません。結局頼れるものは自分の実力だけです。なのでよっぽど自分の才能に確信がもてなければ彼のような人生は歩めないのだと思います。そのような確信は周囲の人間からすれば、たんにエゴの塊のような人間としか受け取ることが出来なかったのではないかと思います。

そんなわけで彼の評判には結構厳しいものが目立ちます。とりわけお金に対しては容赦がありません。何故このようなことに成るのかといえば、啄木にとっては人にしてもお金にしても重要性の基準が全くズレていたのではないでしょうか、社会においてルールに対する意識が違うというのは、そこで摩擦が起きても当然のことになります。しかも抑えの利かない激情家だとすれば、妥協したり折り合いをつけるなど不可能に近いことではないかと思います。

とわいえ世の中に彼と同じ目線で物を観ることができる人はそう多くは無かったはずですが、現在まで文学の世界に残した輝かしい足跡が残っているということは、当時から彼の才能を見抜いて支援していた人がいたということです。そのおかげで文学の世界に大きな花が咲きました。

 

こちらは居住地跡にある看板です。建物の痕跡はありません恐らく下の写真にある石垣は当時のものではないかと思います。

 

さて、こちらが、勤め先の弥生小学校です。看板には北海道警察発祥の地とありますが、どおりで小学校にしては少々厳めしい建物のようでした。右の写真は小学校の玄関なのですが、この部分だけ周りの壁と色が違っているのがわかるでしょうか、実はこの小学校10年前にそっくり建て替えられています。その時に、デザインは当時のままを復元し、ついにはこの玄関の壁だけ当時のままを残すという、とてつもないお金が掛かっています。

建て替えの時は税金の無駄遣いだなどと騒がれましたが、このように歴史を振り返っていると、無理して壁を残した意味も、今は理解できます。