G-BN130W2PGN

お問い合わせ先

mail@makotoazuma.com

 

思考ラボ

2024年9月15日gallery,ようこそ

2023年 7/2 思考のまとめ⑩ 努力は無駄なのか?

このような記事を書いていると、過去の記事といろいろ自己矛盾ととられかねないところがある。とはいえ誤解を心配しなければならない人が、そもそもこの投稿を読んでいるだろうかと考えると、私は取り越し苦労だと思うことにしている。

とはいえ読者の善意に甘えたままなのも本意ではない、そこで今どの視点でこの記事を書いているのか読者の方には明確に示すことが読者に対しての誠意だということも感じている。とくに世の中には目的や善悪の区別はない、などと言いながら政治の世界に憤りを隠せないのは明らかに自己矛盾だととられかねないからだ。

今回の記事はこの点についての自分なりの整理であり思考のまとめの核心的な部分になるとも思っている。

それではこの投稿の大まかな世界観を示すと、まず初めの段階でエントロピーが増大する方向にしか矢印が示せないことについて世の中に増大するばかりで決して減少しないものは何かと考えると、それは経験の記憶ではないかと考えている、つまり物質の存在は絶えず変化して捉えられないものだとすれば、物質は存在を示すものではない。そうだとすれば物質の存在が拡大する一方であるということにはないのだと思う。そうだとすれば増え続ける一方の存在とは現象によって生み出された経験という情報しかないのではないかという結果に達した。さらに私はこの情報が増えることに対しては、いかなる道徳的なフィルターも存在せず、そうであるからこそ生命に対するマイナスの現象も記憶されることになると考えている。

結局ここに存在する動的な繋がりは、情報は増大しなければならないという意志だけが残るのではないだろうか。

もしそうだとすれば、我々生命は本能の赴くまま生きることに何のためらいも無くなることになる、ましてや人道やモラルなどというものはさらさら出番を失ってしまうのではないだろうか。このことをもって近代の人類は、神や仏もないなどと宗教に対して懐疑的な目を向けてきた。

そこで、私は無意識の世界をいったん出て現象の世界に注目してみた。この世界の特徴は時空という空間認識と因果律という物語性の認識が生まれることで、人類はこの物語の正当性を常に模索してきた。そしてその答えを宗教に委ねてきた。ところが近代ここへ真っ向から対立する思想が生まれた、それが唯物論である。この思想が成功した原因は、精神うという不確かなものから物質という誰でも手に触れ認知できるものが幸福の尺度に使われたことだ。このことにより人類は精神の尊さなどというものよりも、リアリズムという極端に破壊的で残酷なイメージに目を向けるようになってしまった。つまり生命のもつ創造への高揚感というよりは、残忍で絶望的側面を強調した表現といえるのではないだろうか。因みに私はシュルレアリスムの表現はリアリズムを超え精神世界に目を向けた表現と解釈している。

話を意識の世界に戻すと、この意識の世界が理解をさらに複雑にしているのは、意識が肉体を持った状態と肉体を離れて存在している可能性があることだ。私には肉体を離れて存在する意識を感知することは出来ないので、すべては噂話からの類推になる。

とはいえ、科学では説明の難しいこの世界も、時間の経過とともにどんどん存在感が増していることから、これを全く無視してしまうことも科学的とは言えないだろう。このような視点で自我という意識を見ると自我は肉体を失っても意識のみで存在できる可能性を感じる。このことを世間では心霊現象と言っているのではないだろうか、ところがこの心霊現象は、無意識における情報の増大という意志に寄与することが出来ないために。

意識は最終的に物質として表現されることが望まれる。ところでこの意識にはどのような特徴がみられるだろうか、私はここに物質の多様性が生まれる原因があるのではないかと考えている、さらに言えば思考を司るのもこの意識にあると考えている。このことはほぼ頭脳を持たないアリなどの昆虫が蟻塚などの巨大な構造物を創造し社会的な秩序を形成している様子はとても蟻の意識があの小さな体に納まっていることなど信じがたい、しかもこれらの意識は昆虫という共通の視点を超えて植物という別な生命体も含めて生態が完成されている。このことを説明するためには、肉体に意識が含まれているという視点では説明がつかないからだ。

このような視点で意識に注目すると意識にはもう一つの特徴を感じる、それは意識には感情というものが備わっているように感じているのだが、このことを古より、きっと神様が喜んでおられるとか、悲しんでおられるなどと表現されてきたためだ。私はAI技術に困難があるとすればおそらくこの辺になるのではないかと思っている。このことはAI技術の否定ではなく、AI技術は逆に感情に流されない存在として現代文明には活躍の場があると認識している。

話を意識に戻すと意識は物質を創造するための能力があり、感情的でもある。いいかえれば、意識には創造と破壊、喜びと悲しみなど両極端の嗜好性が示されていて、個性を持った意識はこのいずれかに収斂されていくことになる。無意識は新たな経験という情報を増大させたいという意志を持つが、その情報が創造と破壊、悲しみと喜びいずれの情報を選択するかは意識に託されているのだと考えている。

つまり悲しみの経験を増やすか、喜びの経験を増やすかは、肉体を持った意識にすべて任されているということになる。だとすれば喜びや想像を志向する意識が増えれば、増大する経験は喜びに満ちていくということではないだろうか。ということで、私は単純に喜びの世界に魅力を感じているので、ここに繋がる生き方を選択したいと思っている、それが私という個性の満足になる。このことによって無意識には私の満足の経験が増大するのだと考えている。そこへ向かうために起こるであろう障害は決して侮ることは出来ないが、挫けず乗り越えていく努力はけっして無駄ではないだろう、なぜなら無意識に刻まれた努力は決して消し去ることは出来ないからだ。

gallery,ようこそ

Posted by makotoazuma