思考ラボ
2023年 12月17日 法律はなぜ必要なのか
この答えはきっと学問として、しっかりとした定義があるのかもしれない。では学問がなければ関わらずに済むのかといえばそんなことはない、少なくとも日本人は生まれて灰になるまで法律のご厄介になる。とはいえこれも日本国内でこその話でその法律も時代とともに変わる。つまり法律は時代の変化に即したものでなければその法律は意味をなさないどころか害にもなる。
そのことは紀元前の哲学者ソクラテスが論破祭りが行き過ぎた結果法律により死刑になってしまったという逸話がある。その時生まれた言葉が「悪法もまた法なり」という言葉だ。私の勝手な解釈になるが法律は手順を踏まない限り、勝手に覆すことは許されないとでもいうのだろうか、では何故ソクラテスは悪法を黙って受け入れたのか。その答えは司法が乱れれば人間社会の秩序も乱れると考えたからではないだろうか。ということはソクラテスにとって社会の秩序は自分の命よりも尊重されるべきものだという考えになる。
さてこの社会の秩序は必ず宗教や思想の影響を受けるが、現代の日本は基本的人権をもとに法律は成り立ち、司法の判断もそれに準じる立場を貫いている。ところでこの基本的人権を構成する要素として人間の尊厳という言葉がある。これは人間一人一人の命が何よりも尊重されるという考えだ。とはいえこの考えをこのまま推し進めていくと民主主義における多数決の原則とは当然矛盾が起こってくる。つまり人間の尊厳という立場を取れば個性としては少数派である場合であってもその立場は守られなければならないからだ。そこを何とか折り合いをつけろと言われても、社会生活にあっては必ず一方の選択を迫られる場面に出くわす。
例えばこのような事案を法律の上で考えた場合そこにはケースバイケースによる制限を設けるしかない。例えば先ごろ決まった理解促進法は、法律自体の理解をめぐり早速公衆浴場や公衆トイレにおいてあちこちで支障が出てきている。というのも外見上明らかに男性と思われる人間が堂々と女子トイレに出入りしているそうなのだ。このためこのような場所を利用しようとする女性は明らかな恐怖を感じているのだ。とはいえこのような状況にもかかわらず裁判所は性自認による正当性を優先した判決を出したため、このような恐怖をどこで受けてもおかしくない状況になっている。これは公衆トイレの例になるが、もしこのような事態が、様々な職場で起こるようであれば、これに対応できない企業は女性社員を雇うことが出来ないことになる。
しかも現政権は女性の社会進出を推進する政策を取ろうとして、配偶者控除の見直しを提言していたのではなかっただろうか、このようなような混乱は初めから指摘があったことで、この法律の成立と共に政府への支持率は下がり始めた。とはいえこのような矛盾を法律が抱え込まないためには性自認については明確な線引きが必要なのではないだろうか。つまり外見で制限を受ける公的な場面と個人としての自由な認識が尊重される場面である。
例えば雇用の場や表現の場においては性自認による差別的扱いは慎まれるべきである。しかしながら公衆浴場やトイレなどの公共の場所では他者が外見的に異性と判断されれば、それによって施設の利用は制限できる。またこのような事案を耳にするだけで不快感を持つ方も居る、例えば学校などでは精神の未発達な段階で生徒が不快感を持つことは容易に想像がつく。ましてや自分の性についての判断などは誤認の可能性も充分考えられ判断を急がせる必要はない。このようなことからも性自認の理解が至らないために、当人の尊厳が保たれないという場合を除いては、社会通念上の配慮がまずは優先されるべきなのではないだろうか。
これまでの常識ではとても判断のつかない現在の環境で、改めて何故法律が社会に必要なのかと考えれば、それは弱い立場の者を法律によって護るためではないのだろうか。荒くれ者が力でいうことを聞かせたり、金の力で何とでもなる非情な世界はマッドマックスかバットマンの世界だけにしてほしい。