思考ラボ
2024年 1月28日 競争と核兵器
競争といえばスポーツは勿論のこと、経済の世界でも競争は市場経済の普遍的な原理とも言われる。とはいえ競争は勝者と敗者を生む残酷な一面も持っている。そのため競争を否定的にとらえる思想宗教もある、極端な解釈で競争を争いごとの延長と考えてしまえば、このような解釈にならざる負えない、その考えをさらに広げていくと戦争に行着くという訳だ。
大変悲しい解釈だが、私は競争もまたこの世界を成り立たせている正しい原理原則だと考えている。これはダーウィニズムを持ち出すまでもなく、競争を特殊な条件に対する優位性を表現するものだと捉えているからだ。
これをスポーツという競技で考えてみると、競技にはルールがあり、それに基づいて競技を競い合う対戦相手が存在して競技は成立する。またルールとは競技の優劣を決める環境に境界線を引くことである。これにより勝敗を決定しようというのがスポーツ競技というものではないだろうか。このことにより得られるのは、特殊環境における特異な技術の向上が認められることだ。このように競技は相手がいればこそ発展し選手は新しい基準となる価値観を創造していくことになる。私は以外にもこのことを成立させているのは、競技終了後に交わされる選手同士の握手ではないかと思っている。もしこのような作法がスポーツに存在せず相手を叩き潰すことを目的にして行われてきたとすれば、スポーツには技術の向上もその継承も起こらずスポーツそのものが衰退していただろう。
ではこれをもっとも純粋な競争世界である自然界の食物連鎖に当てはめてみれば。その世界は弱肉強食と言われ、力の劣る生き物は、初めから力の強い動物の餌食になるようにと運命付けられているようだ。確かにこれをピラミッド構造のヒエラルキーに当てはめれば、その頂点にあるのはもっとも力の強い動物となる。ところが視点を変えて、種の個体数やそれに伴う地上の占有率から見れば、力の強い動物は、むしろ立場の弱いマイノリティーとなる。つまり、種の繁栄という視点で見れば、力は必ずしも種の繁栄を約束するものではないのだ。何を言いたいかといえば能力の優劣というのは、あくまでも一方向で見る優劣であって、視点を変えれば生存のための絶対要素ではない。
それより重要なことは優劣という関係は、必ず相手があって成立するもので、相手が地上から失われてしまえば優劣の関係すらこの世に存在しなくなる。残酷な食物連鎖の世界においても、敗者の命が勝者の命を繋ぐことで食物連鎖の世界は未来へ継続することが出来るのである。
さてこれがタイトルの核兵器とどのように繋がるのかといえば、これまで戦争は民族あるいは国家のパワーバランスによって、その国家あるいは民族の存亡を決定づけてきた。ところがこのやり取りに意味があったのは、戦争で優位に立った勝者が文明の覇者となってきたからだ。それに引き換え、現在世界のパワーバンスは最終兵器と言われる核兵器がその優位性を保持するものと思われている。ところがこの核兵器はその威力があまりにも強力であるが故にその威力に全くコントロールが効かない。つまりその使用は必ずしも勝者に繁栄を与えるものではない核戦争に勝者はいないと言われる所以だ。
話を整理すると、競争とは特殊な環境における技術の優位を競うものだ。したがって競争には潜在的に技術的向上による繁栄とそれを競う相手が存在してはじめて成り立つという原則がある。一方の核兵器というものには、正義というものが全くない。それは競い合う相手の完全消滅を願い、そのためには自分の置かれる環境まで脅かすことを顧みないという非道な考えで成り立つからだ。