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思考ラボ

2024年11月17日gallery,ようこそ

2024年 3月22日 個性の生まれた意味

自分とは何かこのブログでも何度も取り上げたテーマであり、意識の目覚めはこのテーマへの気付きだともいえる。あるアプローチでは、このことを言葉による定義に求め、また宗教的立場によれば個性を超えた視座からの在りようとも思える。あるいは、この問いこそが個性の存在理由そのものだとすることもできる。

そして私はその考えすべてが正しいということをこのブログで自分に納得させようとしている。つまりこれは私の知識の限界で物事が矛盾なく理解できることを目指している、当然その道の専門家が体系的に理解されている世界とは全く別のものになるので、ご了承いただきたい。

例えば私は仏教徒ではあるが、このブログの話は仏典とは程遠い内容に受け取られるかもしれない。あるいは聖書についても更に縁遠い存在なのである、とはいえこの世の神羅万象は人知を超えた存在失くして起こりえないだろうという立場で、宗教を理解することでその本質は繋がっているものと感じている。

つまり創造主という存在を受け入れるかどうかが、宗教というものを受け入れるかどうかの境目になる。最近特に無神論という言葉が多く聞かれるようになってきたが、私は無神論についてはある種の寂しさを覚えている。というのも無神論的立場でこの世を観れば、すべての存在はあって然るべき、無くて然るべきで早い話がそこには感謝も感動も生まれてこない、つまりこの世にアメージンググレースは存在しないことになる。

因みにこのことはAI技術をどうとらえるかということにも関わってくる、私は将来に渡りAIが感情を持つことはないと思っているので、AIのもたらす解答や創作物は、アルゴリズムの壁を超えることはないと思っている。つまりAIの創造物だけでは宇宙の経験を増やすことは出来ないと考えているのだ。話を宗教に戻すと世の中の宗教、宗派の違いは、我々がその存在に何を求めているのかという違ではないかと思っている。だからこそどの宗教にも個人による選択の自由が残されているのだ。

ところで私が今日この記事を書いたのは、宗教の認識についてではなく、個人や個性が何故存在するのかについての表現を、また思いついたからだ。

私は、これまでこれを定義する言葉として、個性とは自分のアイコンを創造すること、或いは人生は宇宙に対し振動の共鳴を起こすことだと考えてきた、そして今回新たに個性とは宇宙全方位に向けられたベクトルではないかという考えが浮かんできた。もしそうだとすれば宇宙の広がりはその瞬間のベクトルの量で決まっているのではないだろうか。そしてそのベクトルの長さとは、それはこれまで蓄積されてきた宇宙の記憶つまり情報量になる。つまり宇宙の広がりを維持するという使命がもし人類にあるとすれば、いやでも全方位に向かう個性が必要になるはずだ。つまり我々人類は生きることそのものが、宇宙から与えられた使命になっている。

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Posted by makotoazuma