思考ラボ
仕事が先か、人間が先か
いつもご覧頂き有難うございます。世の中変なことを考える人がいるものだと思われるでしょうが、これこそ私だけの個性で、私だけしか感じることが出来ない渇望の海です。そこから光を感じようといつも藻掻いています。さて、今日のお題ですが、答えは一発、人間に決まってますね。卵が先か鶏が先かと問われると考え込んでしまいますが、この問いで考え込まれた方はいないと思います。ただし、それは今あなたが理性を保てる状態で、この問いにある程度の距離を置ける場合です。いま世界中でこの問いを平常心で受け止めることが出来ない方が、相当数おられると思います。仕事より人間が先に決まっています。仕事の成り立ちを考えると、人間が社会という概念を形成して、初めて仕事というものが成立します。仕事とはもともと個性の補完のために生れた行為ではないでしょうか、例えば男女性があったとして性差による得手不得手があるとすれば、最も効率良く成果を出せる作業分担こそ、仕事の起こりではないか、と思っています。そして仕事と貨幣が出会うことによって、仕事は成果を担保され、仕事によって生み出された社会はどんどん成熟し多様化していきます。いずれ社会はその歪を、内包してゆくことになりまが、その歪は、やがて貧富の差を生みだし、社会は人間性とかけ離れた常識に、支配されてゆくようになります。そして仕事を失うことは人間社会からの脱落をイメージさせ、個人に孤立感を植え付けてゆきます。そこでもう一度質問します。「仕事が先か人間が先か」考えるまでも無いことです。私は仕事について、人間が存在する限り無くなることはないと考えています。私が考える仕事は相手の不満を解消し、それによって対価を得ることです。私はどれほど世の中が変化しようとも、科学が進歩しようとも人間の不満がなくなることはないと考えています。そのような不満の海を求めて我々は生れて来ているからです。これから今まであった常識が、変化して新しい仕事が始ってゆきます。変化に身を委ねましょう。そして、この現象をポジティブに捉えることができれば、あなたに大きなビジネスチャンスが生まれます。貴方がスターターになることが出来るのです。ただ人の不満に耳を傾け解決してあげる。あるいは寄り添うこと。この世は不満で成り立っています。社会はあなたの力を必要としています。それではまたあなたのご健勝をお祈りいたします。
ニワトリと卵のロジックについて
先日の投稿で、鶏が先か卵が先かのロジックを例えに上げましたが。こんなこと一生懸命、考えようと思ったことってありますか。いつもご覧頂き有難うございます。また、くどい話させてもらいます。今でもこんなこと私は、年甲斐もなく考えちゃうんです。ブログがなかったら自然消滅なんですが、今の時代ってありがたいです。こんなおっさんの投稿を読んで頂けるですから、実はこの思考ラボ、私の拙いブログの中では人気のブロックです。このことについても、考えなければならないところがあるんですが。読んで頂いている方には感謝しております。では、早速このロジックについて私は、どの様に受け止めているのか、それは観察者が見た認識で決まるです。「量子の話ですか。」私にそんな話は出来ませんので。昨日おこった思考をたどってみます。まず、鶏という認識ですが鶏が成長した状態を鶏と認識していますので、卵の状態では鶏とは認識できません。卵から何が生まれてくるかは未知数です。ただしこのロジックは鶏が先か卵が先かのロジックなので、鶏が卵から生まれてくることを知っている人間は卵から生まれてくると回答するのが正しいと思います。なのでその卵が鶏の卵と認識できている観察者だけが、その鶏の卵からと回答できると思います。個体の変化は突然変異によるといわれますが、その原因は成体の状態からか卵の状態からか特定は難しいと思いますので。このように考えました。ではまた、お会いできることを楽しみにしております。
本当は怖い理想の話
いつもご覧頂き有難うございます。今日はある俳優の不条理なニュースについてなんですが、ご存じの方はやはり、やりきれないものがあったと思います。なぜなら男性は理想的な容姿をお持ちでなんら不足を感じることがないのではと思えるくらいで、自分からすれば後はなにを望めばよいのか、余計な心配をしたくなります。
そしてそんな恵まれた方が自らの命を絶つというのは、いったい何があったのだろうと考えてしまいます。「将来にあっても決して満たされることはない。」と絶望を感じなければならない何かが、あったんだと思います。で原因については知る由もないのですが、経歴などを見るとかなり、自分の理想に対しかなりストイックな性格をお持ちの方ではなかったかと推察されます。そのような方は、自分の仕事、容姿、振舞いすべてに対し理想があるのだろうと思います。
たとえば仕事のスタッフとの付き合い方でも良い関係を作っていたようですし、オフでの活動もまさに極めていたようです。そうなると心配になるのが気を休める場って、ほとんど無かったのではないかと思ってしまいます。なので当然、私生活では個人行動が多かったようです。それが気を使う人の特徴で、自分の理想から外れた自分は、他人から見られたくないのです。そして忙しくなればなるほど、不満の残る仕事も多くなるでしょうし、それを内省する自分だけの時間も取れなかったのではと思います。それはクリエイターにとっては大きなストレスだったように感じます。
私たちは、夢や理想を持つことが、無条件に正義だと信じ込まされていないでしょうか。確かにクリエーターの中には、この理想に対するプレッシャーを感じている方が、結構多いなというのが私の感想です。もちろんそうでなければ、良いものを生み出すことが出来ない、というのも真実だと思います。問題は、理想を追求していくこと以外の自分も、共存していることを忘れないことです。自分は何故ここに存在しているのか、その追及こそが、本来の存在理由ではないのか、そしてそこに相対するとき自分の理想とは全く相いれない自分と向き合うことになるかもしれません。本当に求めていることは、自分の考える理想とは違ったところにある可能性があります。なので自分の理想ではない自分に出会っても、目をそらさずその手を握ってみてください。その自分はもっと大きな世界と向き合っているかもしれません。そしてその目に映る光を感じてみてください。望みを遂げることが出来なければ、望みを遂げられるまでチャレンジするだけです。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」昔の人はやっぱり過激です。
それでは読んで頂き有難うございます。貴方の望みが叶いますように。
私の名は欲の皮に付いている?
いつもご覧頂き有難うございます。これ、じつは絵のタイトルなんです。しかも私、そうとう気に入っています。今日は、こちらのお話をさせて頂こうと思ってます。このお話をすることによって、普段私の考えている目線がハッキリしてくると思います。斜め上の要因です。
で名前についてなんですが、人間って名前には、すごく拘りますよね。トラは死んで皮を残す、人は死んで名を遺すといわれますが、私は名前こそが孤立化を誘う元凶と思っています。つまり名前こそ、自我の形成という認識です。これにより自、他の認識が形成されてゆきます。
困ったことに論理というものも、名前を付けることが無ければ何一つ成り立ちません。知的好奇心どころではなくなります。対する無意識の世界では名詞は必要ないのかといえば、必要とはしないが存在しているということでしょうか。別の言い方をすれば何かを、どうするということが無いので、何かを特定する必要がないというところでしょう。
もともと無意識の世界は、個の識別は必要ありません。つまり無意識の世界に立ち入ろうとすれば、論理も邪魔、名前も邪魔なんです。このことは禅問答に通じるところがあるのでは、と思っています。問題は、この世で何かを考える場合、どうしても名詞が必要なことです。なので頭でうだうだ言ってるうちは,この世の現実から離れることは出来ないんです。「ですから皆さん、思考ラボって、あちゃらに行きそうになっている方を、現世に留めるための装置なんですよ。」といったらどうなるんでしょうね。
そうです、現実世界という我々が今暮らしている世界では、どうしても思考から離れることは出来ません。「はじめに言葉ありき」というのは、こういうことなのだと思います。もしあなたが、この世界を見て何かを感じたとしても、名詞、あるいは言葉なしに、概念というものは生み出せなくなります。つまり認識というものを伝えることが出来ませんし、自分の中に留めておくことが出来ないんです。名前を付けて識別することは、分離意識をうみだし、孤独感を生み出す元凶でもありますが、そもそもこの世界を認識するためには言葉が必要で、言葉なしにこの世界を認識できないとすれば、言葉は、存在そのものという気がします。
この世界の起こりと分離意識の誕生は切っても切れない関係で、私たちが孤独感に苛まれるというのは、世界という認識と同時に誕生しているということでしょうか。とすると、ことさら自分だけが、孤独を感じるということではないようです。でその名前がついている対象を私は皮といっています。これは大きな意味で皮と云っていますが、自分の外側を形作るものと定義しています。
実はどこからどこまでが、自分と認識できるかについては、結構面倒になりますのでスルーさせてください。そしてこの外見に名前を付けてできる世界は、ある目的を持っていて、我々はこの皮を維持することが、生存することととらえています。
私はこの世界は満たされないことから始まり、満たされてもまた、満たされないことが起こってくる罰ゲームのようだと思っています。それが皮に付けた名前から成り立つ世界です。人は名前ですら現世に残ることを夢見ます。この世が欲から始まることを知っていながら欲から目をそらしたり、欲を感じることに恥じ入ります。それこそが逃避というものではないでしょうか。むしろ欲に向き合いコントロールしていくこと、この世にある間は、この世に向き合って、腹いっぱいになったらきれいさっぱりお暇する。「これでいいのだ!。」って思います。
やっぱり!
先日、書道の進級試験の結果が戻ってきました。結果は不合格で、その時心に浮かんだのは残念でもなく、悔しいでもなく、「やっぱり」です。つまり納得していないまま課題を提出してしまったということです。今まで何とかストレートに進級してきましたが。今回も何となく合格できるのではって、課題を提出するときに思ってしまったんですね。欠点に気づいていながら書き直すことを止め、自分の感覚に目を瞑ったわけです。もしこれで進級していたら、これからも、この感覚で試験に臨んでいたと思います。デッサンもそうですが最後の最後まで集中できた方が、勝利を手に入れることが出来ます。失敗を成功の糧に出来た方が、最も早くゴールにたどり着けます。失敗に目を背けず、素直に見直すことが出来れば、道に迷うことはなくなります。恐れず立ち向かいましょう。いくら頑張っても永遠からすれば、シャボン玉のような世界なんですから。皆様のご健勝を祈ります。
JUSTICE
先日、JUSTICEというタイトルの作品を投稿しました。正義について表現した作品かといえば、そうではありません。正義を行使するにあたっての、その周辺というイメージです。では、この投稿で、いよいよ正義を語るかといえば今は、そんな元気ありません。正義の定義について確認しましたが、その複雑さは、「愛」を軽く超えます。おそらく社会という仕組みが出来ると同時に必要になった概念ではないかと思っています。なぜなら社会が複雑に、拡大していった場合、社会と個人とをつなぐ共通理念がどうしても必要になってくるからです。そして社会というコミュニティは、そのコミュニティが置かれた環境、派生した歴史によって変化してくるので、共通理念も当然、多様性が生まれてきます。私たちは、社会から孤立して生存することの難しさを相当意識の深いところで、感じています。例えば他人から「自分勝手、自己満足、自己中」こんな言葉言われたくないですよね。でも、自分無くしてだれの人生なんでしょうか。躓きやすい人、いっしょに歩みませんか。
今日のテーマはSPIRITです
いつもご覧頂き有難うございます。今日もでかいテーマですが、残念なことに私にも、今現在この投稿の落ちが解っていません。でも毎度のことなんで、何とかなると思っています。今の私の心境は「これからどうなるの」です。ではなぜ、このような暴挙に及んだかというと、日本語の興味からです。スピリットを日本語に訳そうとすると、訳が多義にわたります。例えば、精神と魂、日本人であれば別物のイメージになりませんか、それも結構はっきりと分かれているような感じがします。まず精神とはなんでしょうか、私のイメージですと肉体や個性としっかり寄り添った心の動きが精神だと思っています。なので人格や思考、思索とも結びつき、その人のイメージや個性を表すことが出来るもの。肉体は滅びても何とかの精神は、残ります。みたいな人間の理想ともつながる心の動き、そんなポジティブイメージを象徴するものだと思います。では魂ですがそのようなポジティブなイメージと結びつくこともありますが。もう一つ肉体から独立して存在可能なものを私たち日本人は魂と呼んでいるように感じます。なので日本人にとっては、精神と魂は別物で肉体が滅びても、独立して存在できるのが魂で、精神は肉体が滅びた後は、肉体が過去に思考した記憶、あるいは理想としていたことではないかと考えています。なので、精神はそれを受け継ぐ第三者がいない限り継続していくことはないのですが、魂は、肉体を離れても時空を超えて、未来に繋がっていけるのではないかと考えています。これは、魂の存在を信じる信じないの話ではなく、言葉の定義の問題で、精神と魂という言葉の違いです。言葉の成り立ちからすると、そのように表現したほうが、理解しやすく、共通認識として、必要であったため、日本人は精神と魂を使い分けているのだと思います。
しかも歴史にさらされてもなお、それはあり続けているいるということです。日本人は魂にいろんな思いを込めています。儚い皮一枚の存在であっても、その皮が永遠に存在し続けることを、願いたいような思いをもっています。魂は記憶をもって時間を旅し、さらに、いろんな出会いと経験をしていく、そんな魂の在り方を日本人は、自然に受け入れてきた。そして今も違和感を感じることなく思い続けています。ひょっとして、あなたと私は、魂で繋がっている。そんな豊かな気持ちに、私たちを誘ってくれているようです。ではまた、お目にかかりましょう。