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思考ラボ

2024年11月17日gallery,ようこそ

悟りは必要なのか?

その前に悟りとは何かという問題がある。このような言葉を使うのは世の中に仏教以外ない。そして、仏教ではこの悟りこそがその教えの根本になる、残念ながらお寺さんにむかって悟りの実態を問い詰めても、自分が望む答えが返ってくるというものではない。なぜなら悟りは、十人十色で受け手によりその姿は変容してしまうからだ。

では私があえてこのようなテーマを何故投稿したかというと、悟りとはこの現象世界をどのように生き抜くかということの指針となり、人類共通の問題ではないかと思うからだ。

とはいえ私は僧ではないので、仏教を布教したいなどという思いはない。ただそこに人生の気づきがあったことは私の事実として認識している。なので、これは仏教について語りたいのではなく私が仏教にかかわりながら、この世界をどのようにとらえているか、という私感を述べるに過ぎない。

そもそも仏教は現象世界で起こる生老病死という恐れや苦しみをどのように受け止めて、そこからこの現象世界をいかに生き抜くかということが、その根本にあるのではないだろうか。つまり、仏教は真実の世界を証明するための学問ではなく、むしろこの苦しみを抱えたまま、いかに人生にかかわるべきかの問題になると思う。

では、私が悟りというものをどのようにとらえているかというと、それはこの世界の真実に対する気づきではないかというものだ。その真実とは、我々が認識している現象世界と無意識の世界で構成され、現象世界は無意識が時空という概念に沿って変容した無意識の投影と捉えている。つまり、本質的にはまったく同じものなのだ。

このことに気づくことが、悟りを得るということなのではないかと思っている。つまり無意識という涅槃寂静の世界の存在を知ることだ。そうはいっても、それを体験できなければ人生真っ暗闇ということではない。大切なことは我々が感じている人生は、もともとは一つの存在であり、一方我々はその無意識が投影されている意識の世界を全く、分離して存在しているかのように錯覚しているだけのことなのだ。などということを腹に据えてみるだけで、世の中の見え方はずいぶん変わって見えてくるはずだ。

ちなみに一見、矛盾の塊のようにも感じる般若心経の世界も、この現象界がそのようなワンネスの世界から表現されているとすれば何の矛盾も感じずに受け入れることができる。

それでは、このことを受け入れると、実際どのような人生が送れるようになるのだろうか、もしもこのような見方で人生を受け入れることができれば、人間が最も恐れる死であってもその本質においては、何一つ消え去るものではないということが理解できる。命とは生まれもしなければ死にもしない、垢れたものでもなければ浄いものでもない、そのすべての存在であるからだ。

この様に考えると人生において惜しむべき物は何もなくなってしまう、足りないものは、自分には邪魔だから置いてきたと考えた方が正しいのかもしれないと思える。

ちなみに前にも触れたことのある「犬には仏性があるのか」という公案がある。ここでもう一度振り返ってみると犬はそもそも生きるということに関して疑問を持つのだろうか。むしろ起こってもいない生老病死に恐れおののくのは人間ぐらいのもので、犬からしてみれば「今を視ろ」と叱られそうな話なのだ。だから犬に仏性はあっても悟りは必要ないというのが私の答えだ。

悟りが必要になるのは、余計な心配を抱え込む人間様のためだ。悟りを得ることは、悔いのないオリジナル体験を安心して人生に刻むためのものなのだ。

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Posted by makotoazuma