今日は好日
2022年 7月16日 情けは人の為ならず
一般的にお盆は、8月に行われるところが多いようだが函館のお盆は、何故か1か月早い。盂蘭盆会は旧暦の7月15日から始まるそうだが、どこかでねじれてしまったらしい。しかも、そのような風習があるのは函館の古い地域で郊外に進むと8月お盆が多い。なので現在の函館では市内であっても7月と8月両方のお盆が混在している不思議な街だ。
いずれ私の予想では7月お盆は消えてしまうだろうと思っている。何故かと言えば人口はどんどん郊外に移っていて、くわえて函館の古い記憶を持つ人もどんどん減っているからだ。
先日、墓参りで寺を訪れた際も、万燈会の受付の案内は目にしたが、どこを探しても肝心の万燈が飾られている様子がない、墓地の奥へ進んでやっといくつかの万燈が、飾られているのが分かったほどだ。
さて昨日は我が家の仏壇にお寺さんが、お参りをしてくれた。先祖も行ったり来たりで忙しい。通常お盆はお寺さんが忙しいので短めのお経で済まされる。ところが昨日はお勤めが終わった後、お盆のいわれについてお話をされていった。今まででは初めてのことで、これが本来のお参りなのだと思った。
お寺さんのお話では、お盆は盂蘭盆会(うらぼんえ)といって盂蘭盆会経という経典が元になっているそうだ。そもそもは、仏弟子の木蓮が神通力を使って無くなった母を尋ねたところ、母はやせ衰え地獄の餓鬼道で腹を空かせていた。木蓮は母のために神通力で食べ物を運ぶが、母が食べ物を口に運ぶと食べ物は炎に変わって母をかえって傷つけてしまう、困った木蓮はお釈迦様に相談すると、7月15日修行明けの修行僧に施しすることで母は救われると教わったというお話だった。
ところで、私は地獄は自分の心の表れだと言って来たのでこの話を、どのように受け止めたらいいのか考えてみた。いったい餓鬼とは何んだろうか、餓鬼とは欲望が常に満たされない状態のことで、木蓮は母という対象が永遠に消えないでほしいという欲望を手放すことが出来なかった。この思いから母が餓鬼道で苦しんでいるという妄想を作り上げてしまっていたのだ。
そこで今度は木蓮が修行僧に施しをすると、修行僧もまた自分と同じ苦しみを抱えていることが分かった。木蓮は修行僧と食べ物を分かち合うことで、同胞と同じ真実に生きることの喜びを感じることが出来たのかもしれない。