今日は好日Vol.2
2023年 12月6日 神話の世界が遠ざかる
今日のニュースで岩手県奥州市黒石寺で行われている蘇民祭りが、来年2月の開催をもって行事の縮小をするそうだ。蘇民祭りといえば日本の3大奇祭といわれ無形文化財にも指定されている。この祭りの大きな特徴は蘇民祭りの別名裸祭りなのだ毎年TVニュースではふんどし姿の若者が境内で蘇民袋という豊作の印を取り合うという勇壮なお祭りだ。
ところが、祭りの担い手が居ないことを理由に、24年2月の開催を最後に祭りを祈祷だけの行事に縮小するらしい。世の倣いとはいえ1000年も続くこの行事が、自分の目の前で幕を閉じようとしているのだ。とはいえこのような現象はここばかりのことではない、たとえば芸能人のお葬式など一昔前まではどれほど弔問客が並ぶかをまるで競っているかのような時代があった。それに対し最近のニュースでは葬式はすでに家族で済ませましたというニュースばかり聞こえてくる。
さてこのことを、仕方が無いこととして捉えるか、文化的荒廃と捉えるかのいずれかの選択になる。とはいえ最も楽な選択は時流に任せて諦めることだろう、しかしながらその選択は将来に渡って日本にさらに寒々しい社会を招き寄せてしまうに違いない。
というのも私が文化的荒廃が進む社会とは人間同士が有機的には関わらず人工の仮想空間で生きながらえましょうというSFのような世界だからだ。こんなことは、ほとんどの方が冗談だと思うかもしれないが、実際に政府はムーショット計画としてこのような仮想空間での生存を政策にしているのだ。
では、逆に裸祭りのような奇祭が将来復活することはありえるのだろうか、もしそれを望むとすればこれまでの我々の価値観を根底から捨て去ることが必要になるだろう。そのことを最も簡単にイメージするとすれば、それは1次産業を基盤にした地域中心の生活になるだろう。ではなぜ1次産業かといえば1次産業は大地の恵みと深く関わっているからだ。そこにはその土地ならではの風土がその土地に暮らす人間への直接の恵みである、要するに豊かな山や川、入り江などの地形がそのことを人間にもたらすことになるのだ。そのために生まれるその土地への感謝こそ祭り本来の姿ではないだろうか。
確かに工業製品も地域に暮らす人間にとって大きな恵みをもたらすこともあるが、その土地に限ることではない。つまりそのことで直接人間から大地への感謝は生まれないのだ。私が思う意識改革とは大地への感謝に他ならない。その意識が希薄になることで現代社会のように、人間同士の関りも希薄になり、やがて有機的な関りは地上から消滅してしまうのだ。さらにこのことは人間の潜在意識に深い孤立感を与えるようになる。それは自分が社会に対してまるで価値のないもののようにとらえられてしまうことだ。このことをよく示している数字が日本人の自殺率の高さに見られる。なんと日本人の働き盛り世代の最も多い死因が自殺だという嘆かわしい事実が証明しているのだ。このような現象は、収入の多寡だけで人間の価値が計られてしまう倒錯した現代社会への警鐘に違いない。
話は変わるが、この蘇民祭りとは須佐之男命の神話がもとになっている。須佐之男命が旅してこの地を訪れた時、旅で疲れた須佐之男命を粗末に扱う兄に対し手厚くもてなした蘇民将来は、茅で作った縄を腰に巻くように告げられる。それから間もなく茅を腰につけない兄は流行する疫病で滅びてしまったそうだ。まるで今を映す鏡のような話だ。このような神話を思い浮かべながら裸祭りのニュースを改めて振り返ると何とも沈痛な面持ちになる。このまま文明に身を預けて暮らすか、悔い改めて天の恵みを信じて暮らすか、選択するのは今に生きる我々次第だ。