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今日は好日Vol.2

2024年1月5日gallery,ようこそ,自作俳句絵画 無意識

2023年 11月29日 君たちはどう描くか

昨日は無限軌道車選手権の映画を観ていたら、売店で「君たちはどう生きるか」のガイドブックを見つけ、さっそく購入してしまった。最初に驚いたのはガイドブックの立派さだ、これで1,320円というのは広告宣伝なしの映画にしては異常に安い、売れれば売れるほどの赤字にならないかと勝手に心配になるくらいだ。とはいえこれも宮﨑駿監督作品だからこそ出来ることなのだろう。因みに通販もあるらしい。

さてこの映画の評価といえば様々あると思うが、YouTubeをみればいまだに、この映画の解説動画が後を絶えない。つまりこの映画に関心を寄せる人間はまさに無限軌道の焦燥感を味わうことになっているのではないだろうか。どういうことかといえばこの映画への思いは私の思い描く思いで間違いないのかという思いだ。その思いが強ければ強いほど私のように、この映画を分析的に捕まってしまう。そんな思いを抱えたまま昨日はこの映画の公式ガイドブックを見つけ、早速答え合わせをしようと思ったのだが、ある意味その期待は裏切られた。しかしながらその思いこそこの映画のタイトルにある「君たちはどう生きるか」という問いなのではないだろうか。

宮﨑駿監督は何を残したかったのか(以下私の妄想)

この日、鈴木氏は宮﨑監督から久しぶりの連絡があった。「ぜひ君の意見を聞かせてほしい」というのだ、いよいよ長編が始まるのかと思いながら、監督のアトリエを訪れると、いつもの監督とは違い何やら思いつめた様子に緊張が走った。そしていつものテーブルにむかって腰掛けると、そこには膨大な資料が載っていて、さらにその上には、長編作品と思われる企画書が載っていた。「これを世に出したいんだが、きみの意見を聞かせてほしい」そのまま監督はすぐにテーブルを離れた。そしてお茶を入れながら珍しく音楽を掛け始めた。日が傾き始めたアトリエに流れてきた音楽はモーツエルトのレクイエムだった。ちょっとぎょっとしてしまったが、この演出にこの映画に掛ける監督の思いがすぐに伝わってきた。それはこの映画を宮﨑監督作品の集大成にしようという思いであり、そのための永遠に終わらない壮大な仕掛けになるのだ。そのことを今この部屋で流されているモーツアルトのレクイエムは語っている。というのもモーツアルトのレクイエムといえばモーツアルトの最高傑作なのだが、残念なことにこの作品は未完成で終わっている。このためこの演奏にあたっては常にこの解釈をめぐって多くの思いが語られつづけている。

しばらくして、曲が終わると同時に宮﨑監督が自分の思いを語り始めた。「僕はこの作品の完成を鑑賞者に委ねたいんです」そんな言葉と目の前に置かれた膨大な資料を見比べて鈴木はすぐには返事が出来なかった。というのもテーブルの上にはナウシカから始まる宮﨑作品の資料が並べられ、その上に新作の企画書が載っている。そこから見えてきたものは今回の作品がこれまでの集大成と言える作品だったからだ。とはいえそこには監督の赤裸々な思いが語られている。エンタメの域を遥かに超える、監督の挑戦ともいえる作品だ。そのためもしこのままこの制作を進めた場合、スポンサーや観客はこの作品をどうとらえるのだろうか、様々なトラブルがプロデューサーとしての鈴木の脳裏をよぎる。とはいえこれまで自分のやってきたことはこの天才の思いを世間に具現化することだったし、これからもそれが自分の喜びだ。しばらく続く沈黙の間、片時も目を逸らさない監督に、ようやく鈴木は重い口を開いた「やりましょう、ただしこれでスタッフやスポンサーにご迷惑が掛かることがあってはこまります。製作や宣伝には私も口を出しますが良いですか」その言葉を聞いて監督の表情は緩んだ、と同時に鈴木氏の表情はみるみる強張っていったのだ。

恐らく今日のジブリと日テレの関係は、このようなテーマパークや制作スッタフの雇用を守るための約束があったのではないだろうか。

ところで、このような作品の完成を鑑賞者に委ねるという考えは現代アートの世界では常識になっている。とはいえ今回私がなぜそう思うのかといえば、このガイドブックの作りが物語っている。このガイドブックには解説版と言いながらも、ほとんどの紙面が制作スッタフの感想で綴られている、特に興味深かったのは、謎のサギ男を演じる菅田将暉氏のコメントで捉えどころのないこのキャラクターをどのように演じたのか興味深かった。このようにガイドでは宮﨑監督が作品の背景や思いを綴るのではなく、スッタッフそれぞれの認識を本に綴っているのだ。つまりこのことは映画の答えは1つではなく受け手それぞれの多様な認識にあるということではないだろうか。

とはいえこの作品の舞台となる世界観はどれほ壮大なものかといえば、それは「地球儀」という主題歌に象徴されるほどデカい、地球儀とは地球を俯瞰するという意味にもなるので、この作品は宇宙規模の話と言える、しかもそこには人類の起源にも関わる神話の世界からの時間軸さえもしっかり組み込まれているのである。そのため、この映画の解説は永遠に尽きない、つまりそれが途切れることなく宮﨑作品の根底に流れていることがファンにとってたまらない魅力になる。

前回私は眞人のこめかみの傷をギリシャ神話に登場するキュクノスに例えた、というのもここに登場する帆船がエーゲ海を思わせるからだ。ちなみにキュクノスは最後の戦いで首を絞められ命を落とすが、なんとこのことは北欧神話にも繋がっている、というのもこの最高神ヴォータンもまたつるされて命を失ったとされるからだ。そしてこの神をサーポートしているのがワルキューレの7人の女神だ。この神々は戦場で亡くなった勇者の魂を、神々の住む城に招いてこの城を護らせようとする。もしこのような神々をあの7人のばあさんが象徴しているのだとすればどうだろか、あの洋館が冥界への入り口だというのも納得できるのではないだろうか。

次にこの映画がもっとも難解とされる大伯父の存在とは何か、このことに対し監督はその表現に使命感を感じているようだ。つまりこれが世界にとぐろを巻く存在のことなのかもしれない、このヒントとなる場面が13個の石を積み上げ、大伯父がそのバランスを取る様子で表現されている。眞人は大伯父から、そのことの継承を頼まれるが拒否してしまう。ところが一方で、こっそりその石の一つを持ち帰ってしまうのだ。

ところで、夏子の姉でもあるヒミについては火を操る存在として描かれている。ところがこのヒミはペリカンからワラワラを護ろうとして、火を使うのだがうまくコントロールできずにワラワラもろとも焼き尽くしてしまう。それほど火を使うにはまだ、未熟な存在として描かれているのだ。そのことは、とりもなおさず人類に対する監督からの切なる警鐘ではないだろうかと考えている。さらにこのことは黄金の門をくぐって表れるドルメンの遺跡にも繋がっている、このような遺跡を世界中に残した古代人をラピュタ人というそうだが、ラピュタといえば「天空の城ラピュタ」ではこのようなラピュタ人を世界を滅ぼすほどの文明を持っていた存在として登場させている。

このほかにも洋館に飾られた障壁画に鷺とトウモロコシを思わせる植物のモチーフが描かれている。このトウモロコシは、その性質に謎が多く、ひょっとして宇宙由来の植物ではないかとも言われている。この不思議な植物と流星による洋館とが繋がっている。そしてもっとも難解とされるサギ男の存在も、もしこの鳥がサギとは偽りで本当は朱鷺だったとすれば、トキはエジプトでは人間に文字をもたらした神とされていることから洋館への導き手として納得がいく、因みにこのトート神は太陽と相対する月の神である、そのため夜を司り本来死者の名前を刻む役目を持っているのだそうだ。つまりサギ男が眞人にあばよ言ったのは眞人とのしばらくの別れを告げていたのではないだろうか。などと妄想を続けていると宮﨑作品の世界観は果てしがなく続いていく。要するにこの映画には無限大の楽しみと多様な感想があり永遠のレクイエムとなる。