今日は好日Vol.2
2022年 12月28日 日本人は好戦的な民族なのか
海外にはいまだに、そのような日本人に対しての視線がある。現代に暮らす日本人にとってまさかという評価なのだが、私もうすうすそう感じることがあるのだ。ではそのような視線は何故、現代の日本人にも向けられるのだろうか。 それは過去に存在した武士や忍者からの影響だろうか、いくら何でもそんなことはありえないのである。このような理不尽な視線は、いうまでもなく太平洋戦争以降にできた日本人への評価だと思う。 太平洋線戦争といえば、驕り高ぶった軍人が引き起こした無謀な戦争という合理性を欠いた歴史観が教育されている。そこに疑問を持つことは許されないのだ。 本来は間違った歴史の選択があったとすればどこに間違いがあったのか、日本人は学問として公の場で学ぶ必要があるのではないだろうか、ところが、なぜか義務教育では時間切れになることが多い。 そこで勉学の場を離れたおっさんは、一人でこの疑問に向き合うことにした。そこで最初に思ったことは、海外の歴史と日本の歴史の違いだ。日本人が好戦的な民族であれば当然歴史の中に戦争の爪痕が刻まれているはずだ、そこで海外との比較をしてみると地理的な条件が似たイギリスと比べてみても日本が特別好戦的であった事実は確認できなかった、むしろ日本は2600年以上の歴史の中で、海外との戦争は10本の指をつかって数えるほどもないのだ。 ちなみに海外での戦争では国が負けると、その国は負けた国はどのような処遇になるのだろうか、その時にもよるが、そこに暮らす国民は領土を失い最悪の場合、自分たちを守るすべもなく世界中に散って流浪の民となる。 更には国語を失い、当然その国の通貨は価値を失うことになってしまうのだ。では現在の日本は太平洋戦争において敗戦国とはなったが、今の日本はこのような惨状と言えるのだろうか、私にはその様には見えないのである、つまりあの戦争では単純な無条件降伏の歴史だったのかというとそうとも思えないのだ。 想像ではあるが、あの戦争で最後まで抵抗を諦めることがなかった、幾多の思いが日本の領土と日本語を守り抜いてくれたのだと思っている。 それでは本題の、このような不屈の精神はどこから生まれてくるものなのか、相手国は当然探ろうとしたに違いないが、その恐ろしい日本人は体格も貧弱で、軍隊の装備も決して十分ではなかった。にもかかわらず、戦争が始まると半年もしないうちに日本軍の戦略目標はすべて占領されてしまったのだ。いったい彼らはスーパーマンなのか、当時の日本軍はそれほど恐れられていたらしい。 これには日本軍の緻密な戦略があったに違いないが、それをも上回る兵隊の資質を認めざるを得なかったに違いない。敗戦後の日本はGHQによって不思議な占領政策を受けることになる、というのも真っ先に行われたのが、教育改革、マスメディアの統制、書籍の統制による日本人の精神への干渉である。そこでは小学生の教科書にたいしても容赦なく墨でマスキングが行われ、学校で歌われていた唱歌にも規制が加えられた。また、信仰の対象である神道へも干渉が入り全国の護国神社には名称の変更を促したり、靖国神社への参拝にも海外から異常な干渉が加えられているのである。 つまり食料や経済の復興を進める間にも、GHQが最も関心を示したのが日本人のモチベーションなのである。このようにGHQが日本人のモチベーションに高い関心を示したのには、アメリカ国内にも理由があった。 それは太平洋戦争が近づくと、アメリカでは日本系アメリカ人の財産を没収し強制収容所への送還が行われていた。ところがそのような不条理な仕打ちにも拘らず日系アメリカ人たちは祖国アメリカに対し忠誠をつくし、祖国のためWW2への参加も申し出たのだ。それは自分たちもアメリカ人であることを証明すための入隊であった。 当然祖国日本との戦闘も想定した申し出であったと思うが、このことについて時の宰相東条英機は宣戦布告に際し海外の移民に向けて入植した当事国に対し忠誠を誓うよう呼び掛けていたそうだ。こうして志願した日系人の部隊はアメリカの第442連隊としてWW2に参戦した。その結果、WW2 を戦った、あらゆるアメリカ軍の部隊の中で最も武勲を上げた部隊となった。そのモチベーションの高さは、戦闘による死傷者の数に現れる。なんと参加した14000人のうち死傷者は314%に達したそうだ、当然これほど生存率が低くては、ほとんどが新兵の状況だっただろうと思われる、にもかかわらずこのモチベーションが維持されたということは他の民族にない資質があったのではないかと考えたのではないだろうか。そのことは占領下における日本の学校教育や宗教への強い干渉になったのではないかと思われるのだ。 とはいえ宗教や歴史観から来る日本人のプライドが海を越えてまで、それほどの影響を及ぼすのだろうか、私はもう一つ別の要因があるのではないかと推察している、それが日本人の道徳観だ。これは暮らしにおいて「何が大切で何が大切でないか」日本人がコミュニティーを維持するために潜在的に備わった遺伝子ともいえる資質ではないだろうか。 そのことは震災にあった時に日本人がとった行動であり、精神的な荒廃が叫ばれる現代でも譲り合って秩序を保とうとする精神である。私はこの精神が現代の「強くても謙虚で優しい人間の社会」を形づくっているのだと思っている。