今日は好日Vol.2
2023年 2月14日 レッテル貼りの怖さ
八紘一宇という言葉がある、世の中にはこの字を見るだけで苦々しい思いを感じる方が多い。なぜかといえばこの言葉によって先の大戦で日本が世界征服を企んでいた根拠とされ、そのプロパガンダの道具に使われていたからだ。とはいってもこの言葉はもともと政治的利用を意図して生まれた言葉ともいえる。この言葉が生まれたのは日本書紀を引用して田中地学という学者が政治運動のために創り上げた言葉だそうだ。もともとは神武天皇が建国の宣言として正しき心を養うことを日本国の建国をもって広めましょうというお言葉が記されていることからの引用であって、世界を日本の思い通りにしようなどという意味は何処にもない。 むしろ、八方に延びる軒先も元をたどれば1っか所を起点として広がっている。恐らくは人類の起源についての例えだと思うが、はじめは同じところから発する軒先であっても先に延びれば伸びるほど、軒先の幅は広がりそれぞれの違いは顕著になってくるものだという意味が含まれている。つまりこのことは個性や人種の多様性を肯定するものなのだ。この解釈が誤りなのであれば、どのような表現が適当かと考えれば「正しい考え以外は認めない」のような断定的な表現になるだろう。私はいま世界中で言葉によるレッテル貼りが横行しているように感じてならない。 ところで今日このような記事を書いた理由は、茂木健一氏の学習塾に関する記事をネットニュースで見つけたためだ。そこには大東亜帝国なる言葉に嫌悪感を感じるという言葉があり、私はつい見過ごすことが出来なくなってしまった。結局私は新聞社の見出しにまんまと釣られてしまったわけだが、とはいえこの記事には現代のポピュリズムに関する危険性にたいする示唆が含まれているのではないだろうか。 私はこの記事の内容を読むまでは、てっきり茂木氏が大東亜共栄圏についての嫌悪感を語っているのだと思い込んでいたが、そうではなかった。茂木氏は進学塾が大学入試の偏差値だけで大学の色分けをしていることに、嫌悪感を感じていると仰っているだけなのだ。茂木氏は以前にもクイズ王という番組に対して否定的な言葉を使っていた。結局この風潮が生み出すものは人間の正しい価値判断を狂わせてしまうと仰っているように私は受け取っていたが、今回の発言も同じ危機感から発せられたものと感じている。 つまり、学力試験の結果が社会に与える影響とは何か、学力と社会貢献度はイコールで結ぶことが出来るのかという疑問から導き出された答えが、学力偏差値を妄信する日本社会への嫌悪感として表現されているのではないだろうか。このことは現在氏の出演されるイマジネ大学という番組では常に創造という視点で学問と社会貢献が語られていることからも感じることが出来る。 結局社会現象を単純な言葉に置き換えて印象を刷り込んでしまう行為をレッテル貼りと定義すると、レッテルを刷り込まれた集団はまったく合理性を欠いた悲劇に陥ることがある、残念ながらその悲劇は近代ドイツにおいて具現化されてしまたことだが、いまだその悲惨な出来事の記憶を人類は消し去ることが出来ないでいる。このことを他人事とするのは、学びを捨てた愚かな行為ではないだろうか。 このレッテル貼りは、知らず知らずのうちに自分たちをレッテル貼りの行為者にしてしまう。例えば繰り返し平和を叫びながら一方にだけ悪意や憎悪を向けさせていくことなどだ。自分たちは平和を叫んでいるだけなのでよもや戦火を広げる行為に及んでいるとは夢にも思っていないのではないだろうか、宗教活動に行き過ぎととられる行為が無くならないのもこんなところに原因があるのかもしれない。悲劇はこのような正義の名の下で常に繰り返されている、まさか自分の自発的行動が何者かにそそのかされて悲劇を振りまいているなどとは考えることがない。しかしながらその結果を想像してみれば、それは古典的でセオリー通りの洗脳とも見える。こんな状況が現代社会でも淡々と進んでいるのだ。結局いかめしいちょび髭などいなくても大衆は洗脳されて自発的に行動していくようだ。 このように、現代の一見弱々しく装った指導者は弱者の悲劇を周りに訴えていくことによって、戦車を確実に戦場へと運んでいる。その先に見えているのは引き返すことのできない何万倍の悲劇だとしてもだ。 マスコミや芸能人は良くも悪くもその知名度によって、一般人の言葉とは全く違う影響力を持っている。その影響力は民主主義国家における数の優位性という最終的な力になることを忘れてはならない。たとえその発言に政治的な意図は無かったとしても、その影響は必ず社会に反映されるからだ。これは知名度を持つ人間の、馬鹿か利巧かの話ではなく社会的責任についての問題だ。