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令和 あくび指南

2024年7月24日gallery,ようこそ

2024年 2月2日 差別と言葉狩り

最近頻繁に差別という言葉を耳にする。私が子供の頃、差別といえば人種差別、物心がつく頃は同和問題という差別があることを知った。これが、不当だと思うのは、このことにより個人の能力とは全く関係のない基準で人生の処遇を受けることだ。つまり生まれた瞬間、個性の努力や才能には、全く関係なく未来の生活水準は決まってしまうのである。

このことは、個人の希望を失わせるだけではなく、社会的に見てもそれによる損失は計り知れない。因みにこの悲哀を国家として痛切に感じていたのは、明治以降突然世界に躍り出た日本だった。恐らく明治の日本人はこのような不条理を国際社会からなくそうと必死だったに違いない。

ところでようやくそんな意識改革が世界で共有できるようになった今、この意識がとんでもない副作用を起こしている。というのも最近何かにつけてこの言葉が幅を利かせているように感じるからだ。最近方言を禁じるゲームがテレビで放送され、これは差別ではないかと非難されていたようだ。何が差別かといえばおそらく方言を使うマイノリティーへの差別だ。

因みに北海道に住む私も、これまで何度も、よそ様から訛っているという指摘を受け、その都度腹立たしい思いをしていたが、だからと言って方言を笑うのはおかしいという発想はない。そういう私も青森や博多の人が目の前で話すのを聞くと笑いをこらえることが出来ない。そんな方言ネタの伊奈かっぺい氏は、たとえ笑うなと言われても笑ってしまうのだ。確かにそれで気分を害する人はいるかもしれないが、人の心の中にまでとやかく言うのは、そちらの方が遥かに恐ろしいことに感じる。

例えば使ってはいけない言葉に、男のくせに、女のくせにというのがある。どこが悪いのかといえば、この言葉が性差別を助長させるのだ。つまりこうなってくると紳士のたしなみと言われたレディーファーストなども大変差別的な行為と受け取られるに違いない。

ではこれらの差別よって世の中にどのような不利益がもたらされるのだろうか、例えば男のくせにという言葉は、もともと筋力のある男性は、その特徴を生かした働きをしろと言うのが、男のくせにという言葉になったのだと思う。逆に女性に対しては母性を望む言葉として使われている、つまりこのような表現を否定することは、生まれ持って備わった個性を無いものとせよということになる。

このような対立を決定論と自由意志との対立のように感じてしまうが、ここには落とし穴がある。どのようなことかといえば先天的環境が個性に影響を与えることは誰も否定できない。問題はその影響が社会まで及ぶことなのか個人の心中で留まることなのか区別されるべきではないだろうか。

たとえば、方言による制限は雇用にまで及ぶことがあれば、それは不当な行為と言えるが、それを聞いて可笑しく思うのは受け手の内面で起こることであり、ここに制限を設けるのは無理がある。このような視点から男らしくや、女らしくの言葉は、もともと備わっている性差にたいし理想を込めた表現であって、あくまでも個性の内面を表現したものにすぎない。これにより不愉快な経験をお持ちの方は、私も含め大勢居られることだとは思うが、これらの表現を変えたところで言葉に込めた思いまで変えられるものではない、悪意は悪意として伝わるものだ。

それよりもこのように言葉に制限を掛ける行為は、当たり前の事実であっても、まるで無いことように作り変えられてしまう行為と同じだ。つまり、性差はあって然るべきことなのに、何度もこのようなことが公で刷り込まれている内に、我々はこんなことは無いことが当然のように振舞ってしまう。きっとこれを仕掛けている人間はまるで世界中に裸の王様が溢れかえっているようで、さぞ痛快なことだろう。

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Posted by makotoazuma