新日本を護るために
2024年 9月26日 じくじたる思い
能登の大雨により11名の方が亡くなられた。能登と言えば年初の震災で復旧があまり進まないことが心配されていた矢先だった。こんなことにならない前に、もっと早く何らかの対策が出来なかったものか亡くなられた方の無念を思うと胸が詰まる思いがする。とはいえこの問題は救難対策は勿論のことながら、土地や家屋などの所有権など民法の整備にも踏み込んだ取り組みが必要で、この遅れが復興の遅れに繋がっていることも確かだろう。結局のところ、これもまた法整備の問題になるのだ。もしこのままの状態で首都圏が被災するようなことでもあれば、今度は日本経済全体が窮地に立たされる可能性がある。そうなる前に法整備に明るい日本のリーダー誕生が切望されるところだろう。
残念ながら現在日本の危機はこれだけでは済まない、先日中国の深圳で日本人学校に通う10歳の男児が殺害された。これについて中国政府の見解はどこでも起きる殺人事件という認識なのだという。確かに中国政府が殺人についてどのような認識を持つのかは他国の内政であるとしか言いようがない。とはいえ日本政府はこのような対応に危機感を持つのが当然で、この際外務省の渡航制限はあって然るべき措置だと言えないだろうか。これが果たされなければ政府は国民の命を現在どのように考えているのかという話になるからだ。
当然このような態度を日本が示せば相手国も直ちにその報復に出るのだとは思うが、この問題は政府が日本人の命をどのように捉えているのかの試金石でもあり、これに目を瞑って経済を優先させろという訳にはいかない。因みに大東亜戦争の切っ掛けになった日華事変の前も、このような日本人殺害の事件が頻発していた。そしてその引き金と言われる盧溝橋事件も教科書では一発の銃声で始まった偶発的な事件のように教わるが、当時戦闘状態になった部隊はこのような偶発事故を避けるため、あらかじめ小銃には弾を込めずに夜間訓練に臨んでいたという。この時の日本軍は敵からの攻撃を受けながらも、混乱を避けるためようやく朝を待って反撃したのだという。しかも対峙する戦力比は、すさまじく日本軍5000人ほどに対し相手は10万人を超える200倍の戦力差だったという。
これを見ただけでも日本が挑発行為を行ったり、日本から攻撃を仕掛けたとする見方は正しくないだろう。何を言いたいかと言えば現在の日本を取り巻く環境は当時と非常に似通った状態にあり、このようなことからいっても外交で譲歩を重ねることは平和的な結果をもたらすどころか、かえって相手国を助長させ取り返しのつかない結果に至たらせる可能性がある。
要するに、もし政治家に国民の命を何より優先に思う心があれば、いずれの事態に対しても自ずと政治家の取った対応に現れているのではないだろうか。奇しくも先日観た動画では世良公則氏と高市大臣が能登の復興について対談されていたばかりだった。そこでは日本の伝統工芸である漆工芸について世良公則氏は、その窮状について訴えられていた。また、今回の邦人殺害事件に対しても、犯人が邦人だけを標的にしていることが明らかであることから、中国政府が示すような日常に起こる事件の範疇ではない。このことに関してもやはり毅然とした態度を示してくれたのは総裁選候補の中では高市大臣よりいなかった。このような状態を日本国民は黙って許しておくはずがない。