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新日本を護るために

2025年1月4日gallery,ようこそ日本を護るために

2025年 1月4日 なぜ日本を護ろうと思うのか

その問いは国とは何かと言う問いであり、私の中ではゆくゆく愛とは何かという問いに行きつく。国とは何かについては以前このブログに載せているのだが、私はさらにその一翼を担う文化は、目で捉えることは出来ない日本のあり様そのものだと思っている。

その意味で皇室が臣民に示される文化の伝承は、イデオロギーを超えて神代からの繋がりを我々人類に表現するものであり、いわば日本国民の証と同じ意味だと私は捉えている。さてその中心となるものとはなにか、私はこれを言霊ではないかと思っている。そのため私が最も恐れる亡国とは日本人がその感性を失ってしまうことだと思っている。確かに武力による脅威も日本人の命を脅かすものには違いないが、それ以上に、他の文明には存在しない一系の天皇による統治が、現在の日本に存在するという事実こそ、存亡の危機にある人類にとっての希望となるはずだ。具体的には、水稲栽培や食文化、景観の破壊や伝統技術などは生活様式や原材料の確保と結びつき日本文化の根幹なのである。このことは、いまのSDGSなどと言う言葉以前に日本には完璧なリサイクルの生活様式があり、その中では糞も小便までもが再利用され我々日本人の血や肉となってきたと言う事実に繋がる。つまり日本文化を守るということは、継続可能な生活スタイルの指針であり、そのことは人類の未来にとっての希望に繋がる。

さて国を思う気持ちが、何故愛とは何かに結びつくのかといえば、私は国を愛すると言ってもそれが過度な妄執に繋がらないかと心配になることがある。それが愛という言葉に内包される二面性だ。というのも身近なところで仏教では慈愛という言葉もあれば愛欲という言葉もあり、ひとことで愛といっても捉え方によっては両極の感情を揺さぶってしまう事になる。

つまり、愛情といえば、姿の美しさや高潔な魂への憧れなのだろうと思うのだが、その裏返しで独占欲による妬みや嫉みが、常にこれに付きまとってしまうことも認めぜるをえない。さてこのような心の奥に渦巻く凄まじい感情の変化を日本人はたった一言「もののあわれ」という言葉で包み込んでしまった。つまり二律背反する感情を否定的に捉えるのではなく、さてもありなむと、無条件にこれを飲み込んでしまうところが、日本人ならではの感性であり私はこの感性を愛さずにはいられないのである。

さてこれについては、剃髪した僧であり漂泊の旅にて短歌を詠んだ西行法師の詩に心を惹かれる。

嘆けとて月やは ものを思はする かこち顔なる 我が涙かな

日本の心はどうしようもない愛なのである。