新日本を護るために
2025年 1月10日 異文化とポピュリズム
ポピュリズムとナチズム何もかも違う言葉のはずが、様々なフィルターを通すとまるで同じ視線を浴びることがある。特に現在は政治的なレッテルにこのような表現が目立つ。というのも相手の主張を封じ込めるには便利な表現に違いない。というのも昨年のオリンピック開催中EU主要国で議会選挙が行われたが、その中でも極右政党の躍進という言葉がよく使われていた。とはいえこれらの政党は驚くべき躍進を遂げていたものの議席の過半数を得る勢力とはなっていなかった。
このため極右勢力の躍進する各国の議会では捻じれ現象が起き各国の政治は混迷を深めている。このような動きの中でオーストリア共和国の議会第一党でになったオーストリア自由党もやはり極右政党というレッテルが貼られている。特にヨーロッパにおいてこのような政党に厳しい目が向けられるのはやはりナチズムやファシズムに対しての嫌悪感が拭えないからだろう。このことについては、承知の通りこれらの政党が暴力や虐殺によってヨーロッパ全体に悲惨な状況招いたことは許されるべきではないと考えられるが、このような悲惨な状況が何故ヨーロッパ全体を巻き込んでしまったかを考えることは、悲惨な歴史を繰り返さない為の学びになる。
つまりあれほど目を覆いたくなるような悲劇が起こったのも、その背景にあるものは、現代人が感じる不条理と繋がるものが存在するのではないかと思うのだ。要するに彼らの感じる危機感は自国の文化や生活が、これ以上EU主導の体制では守ることが出来ないという危機感から生まれたものなのではないだろうか。特に農耕を中心に栄えてきた文明は土地への執着心が強くなる、このような何千年も民族に組み込まれてきた思いを、勝手なイデオロギーで手放せと言うのは文明に対する暴力のようでもある。要するに農耕民族と遊牧民では同じ人間であっても感性は全く違ったものになる。
さてこのことは日本国に有っても同じ事が言えるだろう。歴史的に見ても様々な人種が訪れた痕跡がみられる日本ではあるが、アイヌ文化の特殊事情を抜かせば、日本人は同じ言葉や文化、同じ価値観を共有してきた。つまり日本は古来から異文化との共生をしてきたのではなく、日本文化の中に異文化を同化させて来たのである。具体的に食文化を例に挙げれば、明治以降誕生した洋食はトンカツ、オムライス、カレーライスなど、或いは中華料理と呼ばれるラーメンなど何かしら他国の面影を感じる料理は存在しても、海外にそのような名前の料理は存在していない。
私はこのように1つの国には1つの文化を共有するという考え方が、それぞれの国で治安を守ることになり、文化の多様性を尊重することになるのだと思っている。
このような考え方を進めれば、難民は排斥の対象というよりも、各国は協力して世界中から難民が出ることの予防について協力していく必要があるだろう。
国家は大衆であり、その思いを政治に反映させることはむしろ政治家の使命なのではないだろうか。