新 思考ラボ
2025年 1月2日 理解と感動
今の私は絵画という表現が何かしらの価値を持っていると信じて疑わない。とはいえそれがいつからそのような妄執に取りつかれてしまったかといえば、私の記憶辿るとあるテレビ番組の影響を強く感じる。なかでも日曜の朝放送されている日曜美術館というNHKの番組は、私にとって特に強い影響を受けている番組と思っている。
というのも先日放送された高階 秀爾氏の「名画は語る 美術史家・高階秀爾のメッセージ」をみて、この番組とは放送から50年以上のお付き合いであることを知り改めて、私が美術に関する多くの知識をここで得ていたことに気付かされた。そして続けて放送された特別アンコール「私とフェルメール 谷川俊太郎」では、私が美術に寄せる思いの原点はここにあったのかと思い起こさせてくれた。
高階氏といえば西洋絵画を美術史という視点で美術初心者と文化的に馴染みの少ない西洋絵画とえおつないでくれた。中でも「名画を見る目」という著書は、私にとって西洋絵画との窓口のような存在に感じている。というのも何も語らない異文化の絵画は、初めての鑑賞者を取り付く島の無い不安に陥いれてしまうことがある。ここに言葉による梯子を掛けてくれるのだから、鑑賞者にとって有難いことこの上ない。ようするに絵画を一度言葉に変換し西洋文化の流れに当てはめ、誰でも西洋絵画を受け入れる素地を作ってくれたのだ。それに対し続いて放送された「私とフェルメール」は1980年に放送された番組のアンコールという形で放送された。それほどこの番組は谷川氏による美術鑑賞の本質を表現しているように思えた。私がこの番組で特に印象的だったのは、谷川氏が番組の冒頭で「感動は言葉にならない」と言い切ったところだ。
ここで美術史家と詩人という絵画に対する見る目にハッキリした違いが際立ってくる。つまり美術史家の追求する理解という世界と、詩人が言葉で紡ぎ出そうとする詩の世界は、理解と感動という言葉に置き換わる。
ところで、番組内で谷川氏のフェルメール絵画に対する氏が紹介される。そこで語られる詩の中に不動という表現があった、これこそ氏の捉える感動の実体があるのではないかと思うのだが、そうだとすれば私のイメージする無の世界と氏の表現する不動の世界は何かしら共通点があるのではないかと嬉しくなってしまった。
というのも私は感動や感情の存在する世界は時空間とは別に存在する物として捉えているかだらだ。だから正直、感動は言葉を超える世界と認識している。なので詩人がいくら言葉を尽くしても、画家がいくら高価な顔料を用いて技巧を凝らしても、感動が生まれるとは限らない。結局作家とは、自分が手に触れることも、見ることさえ出来ないものを、あると信じてひたすら磨き続ける人達なのかもしれない。
理解と感動、人は生まれると、誰もがこの狭間を揺れ動くものらしい。私は不動の世界を選んでしまったようだ。