今日のできごと
2021年 1月10日 野見山暁治画伯
昨日、こころの時代という、ふだんは、お坊さんや牧師さんしか出ないような番組に、野見山画伯が取り上げられていたので、思わず見ちゃいました。
野見山画伯といえば、このすじの方には、語るまでも無い巨匠ですが、実際、作品を目の当たりにされている方って少ないかもしれません。原宿の地下鉄駅にステンドグラスが飾られています。
ずっと純粋な抽象作家と思っていましたが、具象作家の登竜門、安井賞も受賞されています。しかも、東京芸大の教授ですから、なにしろ権威の塊、恐れ多い。
で、昨年12月で100歳を迎えられたそうです。それも、現役作家として、一人暮らしをしておられる様子でした。インタビューにも、年齢にふさわしく達観したコメントを語られていました。やはり、100歳ともなると、肉体の衰えは避けられない様子なんですが、情熱だけは、常に沸き起こってくる、以前は狂いが無かった混色もなかなか決まらず、制作には日々格闘の連続のようです。
ところが、画伯が、母校の中学校で授業をされる場面では、それまでの穏やかな、お顔とは別のお顔をのぞかせていました。最初授業にあたっては、母校の教員から、このような目的で授業を行ってください、のような趣旨のメモを渡されて、そのときは、「自分も高齢なので、今回は期待どおりには、出来ないかもしれない」って断ていたと思うのですが、授業の様子を見て驚きました。
そこでは、生徒同士が描いた素描を、スライドで一人一人講評していたのですが、こんなの、どれほど手間の掛かることなのかってことです。先ほど渡されたメモ紙の通り、お決まりの答えを返してあげれば、授業は成立するはずなんですが、あえて、何が飛び出すかわからない生徒の作品で授業を組み立てる、そこには、どうしても、伝えておきたい思いがあったのだと思います。
そして、その答えは、授業が終わった後のインタビューにありました。要約すると「絵のうまい下手は、どうでもよい、大切なのは、絵にそれぞれの個性が描かれているかどうかだ。」その時ばかりは、とても厳しい表情で、言葉も、もっとストレートな表現だったと思います。なるほど、だから手間がかかっても一人一人に講評していくスタイルで授業されていたんですね。100歳を超える大画家が伝えたかったこと、それが、個性の大切さで、この世にある間は、その個性を味いつくすことが、この世に生を受けた目的ではないか、私もそう思います。