思考ラボ
2024年 3/9 プライド
ウェキペディアによるとプライドは自尊心や自己の優越性を示す言葉だそうだ。確かにプライドの高い人といえばぴったりこの解釈が当てはまる。では自国のプライドとは何かと考えれば、それは単に何かの優越性だけの問題ではないように感じる。どういう事かといえば、プライドとはオリンピックや経済力のように数値化できるものではないと思うからだ。この問いに対し私が考えた答えは、国のプライドとはその国の歴史そのものではないだろうか。
どういう事かといえば経済の指標であるGDPを競ったところで、それがその国のプライドだと考える人はいないだろう、そんなことより自国がどのような困難を乗り越え現在に至っているのかを知ることがその国のプライドであり、もっといえばその国において自分がどのような歴史を辿って現在に至っているかを知ることが、その国における自分のアイデンティティーつまりプライドになるのではないだろうか。
ちなみに私にとってプライドの高い国の人達と聞いて、すぐに頭に思い浮ぶのはフランス人だ。私の記憶の中のフランス人は英語で話しかけても通じないふりをすると聞かされていた、確かに昔の国際空港などでもフランス人に英語は通じないということが常識だった。仕方なしにフランス語を覚えて話しかけると、それがあまりにも酷かったせいか諦めて英語で返してくれた。ところが先日、世界のニュースを視ていたらそんなフランスの若い人がオレンジとグレープフルーツの区別がつかないなどと言っている。昔はフランス人と中国人は四つ足ならテーブル以外、空を飛ぶものは飛行機以外なんでも食べてしまうと言われていたくらい食に対する好奇心は他国を圧倒していた。当時の私は、それが彼らのプライドだと思っていたのだ。
ところが、そんな彼らがとうとうキュウリとズッキーニの違いが分からなくなってしまったというのだ。今でこそ日本でもズッキーニはすぐ手に入る野菜になってきたが、昔しはそんな野菜があることさえ知らなかった。この野菜を初めて目にしたのはフランスの八百屋で、どこの店先にも、季節になるとはち切れんばかりのズッキーニが山と積まれていて、私はその姿があまりにキュウリそっくりだったので、そのつもりでズッキーニを買って浅漬けにしてみた。ところが実際それを食べてみるとその食感はスポンジのようにふわふわしていてまるでナスのような食感だった。そればかりか香りも青臭く独特の香りがして、結局私がこの野菜を好きになるまでにはしばらく時間が掛かった。
つまりこの現象はフランス人のプライドともいえる食生活が、すでに変わってきてしまっているということを意味している。いずれこのままでは強烈な個性のチーズなどもフランス人の食卓から消えてしまうのではないだろうか、何故ならその食文化を受け継ぐためには3世代以上に渡る食生活の交流が必要で、昔はこの交流を三世代が一緒に居住する大家族が担っていた。
これを日本に当てはめてみると、私が住む北海道にも三平汁という塩漬けの魚を野菜と一緒に煮込んだ有名な料理がある。昔はこの料理を味わうためだけに器が作られたというほど人気の料理だったのだが、現代の家庭からこの料理の人気はあまり聞かれない。因みにこの料理は魚の骨についた身をしゃぶるようにして味わうところにあるのだが、中でも最もおいしいと言われるのが魚の目の玉になる。私は3世代が暮らす家庭に育ったが、残念なが私はこれを受け継ぐことを拒否している。
さてこのように食文化の伝承は土地や家族に依存するところが大きい。つまりここから生まれる営みが、それぞれの国の文化となり、その国で暮らす人間のプライドになる、このような基本的な生活様式が備わっていてこそ文化的価値観の共有が出来るのではないかのではないかと思うのだ。例えば紫式部は世界で現存するもっとも古い小説を残し、現代の日本人もそのことを大いに誇りとしているところではあるが、それはその時代に暮らした人たちと現代に生きる我々が同じ食生活でつながり、同じ価値観を共有していると感じればこそ、その味わいも深まってくるのではないだろうか。
私が思うプライドとは、現在の命に至る歴史への感謝であり、それを受け継いでいこうとする志である。