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思考ラボ

2024年5月2日gallery,ようこそ

2024年 2月26日 求道者

先日とある会議の中で茶道は総合芸術なのかという疑問を向けられ、会議が紛糾してしまった。私はこのことに対し自分で勉強してくれと少々突き放したような言い方をしてしまったが、これは相手の勉強不足を非難しているのではない。単純に何らかの行為に対して道という言葉がつけば、そこには明確な答えは存在しない。むしろ答えを求める行為(求道心)こそ道という表現に相応しいのだと思っている。

もう少し具体的に言えば、いくら書物で作法を学んだとしても、そこに答えを見出すことは困難だろうという思いがあるからだ。つまり茶道とは何かという問いを突き詰めれば、その成り立ちから禅とは何かと言う問いに行着いてしまう。それではと言うので禅問答の解説を探して、これが正解だとするのはどうだろうか。確かにそれでも雲水修行の行程を進めることは出来るのかもしれないが、自分に問うことをせずに得た答えでは禅問答自体の意味がなくなってしまうのではないだろうか。そうならないために臨済宗における公案は一対一で行われると聞いた。要するに公案とは答えを自分に求め、自立した答えを表現することがその意義だろうと考えている。このことを私なりの解釈で言わせてもらえば、その答えとは移ろいやすく表面的な自我の奥底に、大いなる不動の真我を見つけることではないだろうか、そこに腰が据わっていれば些末な表現は捕るに足らないことだろう。たとい鼻をつままれても、わき腹を殴られてもそこに自分があればそれが答えなのだ。

だいぶ脱線してしまったが、私はお茶席の最も大切なところは、作法や設え云々というよりも、お茶をすするというただ一点に集中することで自分本来の姿に向き合うことではないかと思っている。

そうだとすれば、日頃私が考えるアートに対する思いとお茶席は大いに繋がりを感じることが出来る。つまり私はアートとは鑑賞者が作品を通して自分本来の存在に気付くことに他ならないと思っているのだ。とかくアートといえば、作家の創作物に目が奪われてしまうが、究極のところアートは鑑賞者の思いによって完成されるものだと思っている。その昔、哲学者のソクラテスは汝自身を知れといい、ドイツの詩人ゲーテは人生は自分探しの旅だという。

そして不詳の私は「アートは自分との出会いだ」という・・・・てへっ

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Posted by makotoazuma