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独立自尊 奥の細道

2024年7月18日gallery,ようこそ,絵本墨絵 俳句

蚤シラミ馬の尿する枕もと

凄まじい内容の句ですが、どなたの記憶にもすぐに残ってしまうのではないでしょうか。

漂泊の旅を表す名句だと思いますが、この句をもって芭蕉はリアリストだったとすると、いろいろ意見が分かれるところだと思います。

皮肉にもこの家は重要文化財として当時のまま現在に伝わっています。さらに芭蕉が泊まった家で現存するのは、なんとこの家1件だけだそうです。皮肉にもといったのは、芭蕉を泊めた主の思いです。名誉を重んじる時代にあってこんな句を自分の家でのこされたら、たとえ自分の家がどのような有様だったとしても私なら名誉棄損で訴えるところです。

それではこちらが芭蕉が宿泊した家の外観です。茅葺の立派な佇まいです。有路家という庄屋で関所を守る役人でもあったため封人(ほうじん)の家とも呼ばれます。

囲炉裏の向こうに土間を挟んで馬を飼っているところがあります。

芭蕉が泊まったところは中座敷というところだそうです。

中座敷

 

如何でしょう立派なところではないでしょうか、蚤虱で夜も眠れなくなる宿に見えますか、しかも近くで温泉が湧いているとしたらどうでしょう。私はこの句も芭蕉がただ目にしたままを詠んだものでは無いと思っています。

この時芭蕉は関所で怪しまれ、なかなか関を超えることが出来なかったともいわれていますが、そのことへの当てつけでしょうか。私にはそうは思えません。むしろ芭蕉にとってこの句は、この場所で詠んでこそふさわしいという思いがあったのだと思います。

では当てつけではない理由ですが、この悲惨な句は芭蕉の想像だけで作られたのかといえば、そうではありません。芭蕉はこの旅の途中この句に表現されたようなことを実体験をされていました。

それは以前紹介した、「笈も太刀も五月に飾れ紙幟」の句を詠んだ飯坂温泉あたりで、なかなか宿が取れずやっと泊まった先で「土坐に筵を敷てあやしき貧家也灯もなければゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す」と書かれていて蚤や蚊に責められ、持病まで悪化するという最悪の状態になります。この時芭蕉はこの旅が捨て身の旅であることを再び覚悟します。なので「蚤虱馬の尿する枕もと」という句は、単なる当てつけや紀行文であればこの地で詠まれるべきものと感じますが、芭蕉はそうはしませんでした。

では、私の勝手な解釈です。この句は尿前の関でこそ詠まれなければならなかったのではないでしょうか。この封人の家は山形と宮城県の県境にあり、またこの関所の付近は鳴子温泉という温泉地でもあります。家から関所まではほぼ10㎞の距離があり、平泉から進むと宿泊先は尿前の関を越して山形へ10キロ先にあることになります。

ということは、関所が越えられず立ち往生ということではないようです。

さて、この尿前、鳴子ともに義経の子息と深い関係があるとされています。義経記によると京都から平泉に落延びる際日本海側の新潟県酒田市あたりから最上川を辿るように峠を越えてきます。その際義経の妻郷御前は身重だったのですが旅の途中出産することになります、その子の名を亀若丸と呼びます。

そして尿前という地名は亀若丸が初めて尿をしたところ、鳴子はこの子に弁慶が関所を過ぎるまで泣かないよう諭すしたところ、関所を無事超えた処で赤ん坊が再び泣きだしたといういわれを持ち、いずれも義経、弁慶にまつわる所です。

つまり芭蕉の思いは、奥の細道によって義経の伝承を後世に伝えたいがため、この句をこの場所で詠んだことにしたのではないでしょうか、もちろん奥の細道は後に出版されることになりますので、ここでかいた恥は子々孫々消えることはありません。おそらく芭蕉もそのことについては認識していて、泊めてくれた有路家の主とはそのことについて、じっくりと話をされたのだと思います。そうまでして有路家の主がこのことを受け入れた理由は、お互いの義経への思いではなかったかと思います。