独立自尊 奥の細道
奥の細道と松尾芭蕉
この回は次の句へ向かう前の準備です。
面倒なようですが、俳句の世界は今や全世界で愛好される世界遺産のようなものです。それほど魅力的で奥深いものですが、弱点もあるように思えます。それは俳句の宿命情報量の圧倒的少なさです。この情報量の少なさが逆に余白の美という、世界であまり類のない作者と鑑賞者の混然一体となった世界を味わうことが出来るのですが、奥の細道の完成からすでに300年以上の時が経過しています。そのため創作時の思いは容易には伝わらないのが現状です。
これまでも笈や草鞋、早乙女や義経弁慶の言い伝えなど江戸時代の人間なら当たり前のことが生活環境の変遷から、なかなか伝わりづらくなっています。
さて、奥の細道は紀行文と俳句がセットになった文学作品ですが、ドキュメンタリーではありません、つまり文学作品としての創作が加えられているということです。なので、芭蕉の実際の歩みと俳句の成作時期がずれたり、芭蕉の隠された意図が盛り込まれています。
ということは、紀行文にこう書いてあるので、この句の解釈はこうなるというのもでもありません。やはり文学の世界は正否を語るのではなく、心が感じるままを受け取ることではないかと思います。
このようなことから、芭蕉の句を味わうためには、それなりの下準備が必要ではないかと考え私なりに気づいた情報を共有させていただこうと思っています。
早速ですが、そもそも芭蕉はどのような思いで深川から奥の細道の旅へ向かったのでしょうか、芭蕉にとって深川の庵は2代目の住処です。この後、弟子によって再び深川に3代目の庵が建つのですが、それは奥の細道の旅が終わった後のことです。
実は、2回目の移転とその前では、芭蕉の心境に大変大きな変化がありました。もともと芭蕉が江戸で暮らした所は、日本橋で俳諧の仕事の他に、治水事業の監督という仕事を委託されていましたが、俳諧の仕事が好調で江戸で3番目の流派を形成するほどになりました。
また、この頃寿貞尼という後に出家することになる、内縁の妻とも同棲しています。
ところが、その内縁の妻と芭蕉が連れて来た甥との駆け落ち騒動で、芭蕉としては、この頃、あまり心穏やかではない生活を過ごしてます。
やがて、そんな生活にピリオドを打つきかっけとなったのが、八百屋お七の大火事でこの庵から焼け出されるという事件がありました。
この事件をきっかけに芭蕉は住まいを深川に移したのですが、ここでの生活は今までの華やかな生活とは打って変わり、世間との付き合いを避け隠遁生活に近い生活をするようになります。
このようなことから深川の庵の佇まいは相当質素なものだったと思います。つまり、家族でひな祭りを楽しめるような立派な庵ではないように感じました。
日本橋にあった頃の庵のように俳諧の門人が足しげく出入りすることも無くただ一人、自分と向き合って過ごすことが多くなっているように感じます。「秋深し隣は何をする人ぞ」などは究極の孤独を感じさせます。
丁度この時お付き合いしていたのが、仏頂禅師で、芭蕉は俳諧を禅師は禅を教えるという関係のようでした。芭蕉はここで禅師より悟りの印可を受けます。ところで、芭蕉がこのように隠者のように暮らした理由は何だったのでしょうか、その理由の一つに俳諧の点者という立場に嫌気がさしたというものがあります。点者とは弟子の作った俳諧を評価する立場のことです。平たく言えば先生です。
とはいえ俳諧の師匠は俳句がうまく作れればすぐに成れるというものではありません。ようは生徒が集まらなければ生活が出来ません。つまり師弟の関係と言えども、そこは人間同士のお付き合いです。時に裕福な弟子がいれば特別目を掛けたり、おだてたりすることも必要です。なんでも正直にやっていては弟子も逃げてしまいます。このようなことは理想を追い求めたい芭蕉にとって納得できるはずもありません。
このようなことから考えると深川への転居とは芭蕉にとって自分の芸術を完成させるための最後の旅だったのではないでしょうか。
深川に移ってからの芭蕉は、水を得た魚のように旅に明け暮れます。そして芭蕉最後の旅、奥の細道を迎えます。首途にあたっては多くの門弟と別れを惜しみながら、俳諧の未来を見据え、西行法師など、いにしえの歌人に自分を重ね旅に死す覚悟での旅立ちでした。
次の句には芭蕉の得た悟りの深さを窺うことが出来ます。