独立自尊 奥の細道
塚も動け我泣く声は秋の風
旧暦の7月15日、芭蕉一行は高岡を立つと埴生八幡を参拝し俱利伽羅峠をこえた。この埴生八幡は木曽義仲が源平合戦の戦勝祈願をした由緒ある神社だ。芭蕉と木曽義仲については前回お伝えしたが、この先の句にも関わりが出てくると思われるので注目しておいて戴きたい。
さて、倶利伽羅峠を無事こえ午後2時過ぎに金沢に到着した芭蕉一行は、早速、門弟の竹雀と一笑に使いを出す。ところが芭蕉を尋ねて来たのは、友を伴った竹雀だけだった。話によるともう一人の門弟小杉一笑は昨年の暮れ他界したとのことだった。
この句は、このことを知った芭蕉が7日後に行われることになった一笑の追善供養のために詠まれた歌とされている。
ところで奥の細道ではこの知らせを聞いたのは、たまたま宿に居合わせた商人から聞いたとされている。いずれにしてもこれほど感情むき出しの句は、奥の細道では見当たらないほどの悲痛な表現なのだが、芭蕉はすでに仏頂禅師から悟りの印可を受けているので、悲しみに我を忘れるというのはいささかの感がある。
私はこの悲しみの衝動に対して芭蕉が精神の歯止めとして置いたのが秋の風という言葉ではないかと思っている。秋といえば、天高くと表現されるほど空気は清く澄み渡ってくるのだ。
つまり芭蕉の心によどむ悲しみの渦も秋風は、ちり芥のごとく吹き飛ばしてしまうに違いない。じつはこの句以降も奥の細道には秋の風が登場して来る、そこにこそ芭蕉の得た悟りが表現されているのではないだろうか。
ところでこの句は出だしの表現から悩ましい、いったいこの「塚よ動け」は何を表現しているのだろうか、私が真っ先に思い浮かべたのが、山よ海に入れと言った聖書の言葉なのだが芭蕉が信仰心について語っているとは思いづらい、また塚は墓石のことではないかという解釈もある、とはいえ塚が墓石になったとしても疑問が消えさるものではない。そんなことは頭で想像してみるだけでも無理に思える。たとえばあまりの泣き声の大きさに石が共振して動いてしまうとか、或いは墓石を擬人化して墓石が芭蕉の意を汲んで動き出すのはどうか、それではドンジョバンニではないか。
私の結論としては墓石は小杉家代々の墓である以上芭蕉は動く対象とは考えていないと思っている。
そこで私が思い浮かんだのが、「門松は冥土の旅の一里塚」という言葉だ。つまり芭蕉が動いてほしいと願った塚とは冥土の旅の一里塚のことで、本当にそのようなものがこの世にあるとすれば、何とかもう少し遠くに動いてほしかった。せめてあと半年でもその塚が先にあっててくれれば、自分と会うことを楽しみにしていた小杉一笑の思いにこたえることが出来たのではないか、そう思うと芭蕉の心はかきむしられるような思いだったに違いない。
さてこの「門松は冥土の旅の一里塚」という言葉は。言わずと知れた一休禅師の言葉だが、一休さんは臨済宗の高僧で、芭蕉が印可を受けたと言われる仏頂禅師も同じ臨済宗の禅僧なのだ。