独立自尊 奥の細道
蛤の ふたみに分かれ ゆく秋ぞ (最終回)
さて安易な気持ちで始めてしまった、独立自尊奥の細道だったが今回でようやく最後の句となった。これまで何度も書いてきたがこの文章は、私個人の納得のために書いた文章なので学問としての価値はない。そうは言っても、今回改めて奥の細道に触れてみると、やはり奥の細道は松尾芭蕉という俳聖の集大成に相応しく、ここから日本人の本質に迫る奥深い感性を垣間見ることが出来たと思っている。
それではさっそく、奥の細道最後の句を味わってみたい。さてこの句を詠んで皆さんの印象はどう思われただろうか、最初の印象ではこの句が松尾芭蕉の集大成という重さを感じることが出来なかった。私が感じたのは重さよりもある種の決意のようなものだ。それは奥の細道の序文でも感じた旅の決意を感じるからだ。その思いはゆく秋ぞという切れ字にそして奥の細道最初の句である、住み替わる代ぞの切れ字とも繋がっているだろう。
とはいえこれほど計算された句にも関わらず、私はこの最後の句に違和感を覚えているのだ。というのも冒頭いきなり出てくる蛤の季語は春だ、このことは阿吽の世界を表現しているとでも解釈すればいいのだろうか、なくはなさそうだがスマートな表現には感じられない。そこで、この句に込められた別の意味を探ろうと思う。
まずはこの句が詠まれた大垣についてだ、地図を見ると大垣は駿河湾から内陸に進んだところにある、中山道と東海道など街道のほかに木曽川、揖斐川、長良川が流れ込む交通の要所なのだ。ここで芭蕉は、しばらく別れ別れになっていた曾良や他の弟子とも再会している。ところがこの地でなぜ蛤が登場するのかはどうしても理解できなかった。何かヒントを探して奥の細道を読むと、ここで出会った一行はなんとそのまま舟に乗って伊勢参りに出かけている。なるほどこれなら蛤が登場するのも無理はない。お伊勢さんといえば桑名で「そうは桑名の焼き蛤」という言葉がすぐに浮かんでくる。しかもその次に来るふたみの言葉も伊勢の二見が浦浜にかけてあるに違いない。「これで謎は解けた!」と言っていいだろうか確かにこの句に登場する言葉に繋がりが見えたかもしれないが、では一体この句で、芭蕉は何を表現したかったのかについては全く見えていない。
「ふたみに」とは、伊勢の二見が浦浜のことだろうか。
整理すると残された謎は2つあると思う、まず初めに芭蕉は何故この句を伊勢で詠んだ句とはしなかったのかである。そしてもう一つはこの句で芭蕉は何を表現したかったのかだ。これは私の完全な推測だが芭蕉は別れということに注目させたかったのではないだろうか、どういうことかといえば大垣は交通の要所であり関東関西の分かれ目でもある。芭蕉は奥の細道の後京都を目指している、つまり芭蕉と別れた片方は関東に向かったと考えられる。つまりお伊勢さんで分かれてしまうと、お伊勢さんには別れのイメージがない、それでは別れというイメージが薄らいでしまうのだ。また実際一行は伊勢から大垣に戻り分かれている。つまりこの句の大事なところは別れというところにあるのだとすれば、交通の要所である大垣が奥の細道の終点ということも理解できる。
そしてこの句は何とのお別れをイメージさせ何を表現したかったのか、それは冒頭の蛤に理由が隠されている。ここまで付き合っていただいた読者の方はすでに、この別れが萩との別れを示しているのではないかと察しておられるかもしれない。私もそうだとは思うがこの最後の句には萩という言葉はない、代わりに季節外れの蛤という言葉が登場してくるのだ。
ここで、思い出していただきたいのは最初芭蕉は、萩を何に例えていたかである。芭蕉は萩を故事に登場する絶世の美女西施に譬えていた。実はこの西施、あまりの雄弁さから当時は蛤にも譬えられていたのである。そうだとすればこの句の伝えたかったことは萩との別れではなかっただろうか。この旅が終われば、いずれ奥の細道は出版され日本中に出回る、その時きっと彼女はこの本を手に取り自分の思いを理解してくれるだろうというものだ。※注
さてこれで終わってしまってはお叱りを受けるかもしれない。悟りを得たともいわれる芭蕉が描いた集大成の奥の細道がそんな薄っぺらなものなのか。確かにこれでは序文の月日はから始まる文は、いったい何だったのかということになるからだ。私は奥の細道が伊勢で終わっても、何の問題もないと思っている。そもそもこの句にある、ふたみに分かれるのふたみとは、伊勢の二見が浦に掛かる言葉で、やはりこの地でも芭蕉が憧れる西行法師は歌を詠んでいるのだ。つまり芭蕉が西行に憧れて、奥の細道によってその足跡を辿ったのだとすれば、伊勢を芭蕉が訪れたことはむしろ当然のことなのだ。
さてその西行法師も世の中を儚むばかりの旅をしたわけではなかった、時には女郎に一夜の宿を乞うこともあった、結局その女郎に西行は逆に諭されてしまったという、そのことを西行は己の恥辱として隠すのではなく、むしろ文章として後世まで残している。私はここに西行法師の旅とは何であったのかということが表されているように思っている。ではこの旅とは何か、私はこれこそもののあわれの世界だと思うっている。つまり松尾芭蕉もこのことに共感し、「もののあわれ」こそ奥の細道の最終的なテーマとしたのではないだろうか。
(おわり)
これまで多数のブログや文献を参考にさせて頂いたことを感謝します。
※注 私はこれまで大垣が河川や街道が交わる交通の要所であることが、読者に別れのイメージを印象付けるのだと説明してきた。嬉しいことに、先日偶然にもその思いを強く後押ししてくれる気づきに出会った。その気づきとは大河ドラマ「どうする家康」に登場してきた大垣城で、このことが何故大垣が奥の細道の最終地として選ばれたのかを伝えてくれている。それは大垣が天下分け目の戦いである関ケ原の戦が始まった地だということだ。そう思うと大垣を奥の細道の最終地とした芭蕉の思いは、やはり読者の視線をこの地のもつ別れというイメージに注目させたかったのだということではないだろうか。