新日本を護るために
2024年 11月4日 抑止力
この言葉にも様々な受け取り方があると思うが、要するに事を構える前に相手に思いとどまらせるのが抑止力というものだと思う。つまり圧倒的な戦力差があれば、よほどの馬鹿でもない限り攻撃など仕掛けてくるはずがない、だから強力な兵器を保有しようというのが軍事における抑止力の発想だと思う。ところが私はそうとも言い切れないだろうという立場をとっている。
というのも軍事において数字的な優位性はあまり当てにならないことが多い、窮鼠猫を噛むという言葉があるように相手を追い詰めればどれほど軍事的優位な立場にあっても、相手が引き下がるとは限らないからだ。このことは、何故大東亜戦争のような四方八方を敵に回す戦争に日本が踏み込んだのか、自国の歴史を辿れば明らかなのである。要するに軍事力の均衡で平和が維持できるという考えは幻想であることがハッキリしている。それよりも、戦略を持たない戦いが、いかに悲惨な結果に繋がり、今のところその代償は国民の血で払わなければならないというのが現実になる。
つまりこのような武器を並べ立てるだけの抑止力では、いくら予算を積めばその効果が見込めるのかすら科学的根拠がない。これに対して私の考えを述べれば、日本が攻撃を受た場合の具体的な想定に対し、それらに対処するための具体的防衛力を整備するべきだと思っている。当然そんなことは自衛隊の中ですでに取り組まれていることと思うのだが、以前政府が策定した防衛力整備計画には首をかしげたくなるところが多い。というのも現在世界中で頻発する戦争の状況を見るにつけ、この計画で陸上部隊の人員が減る傾向にあることは、防衛力強化に対し逆行する動きにしか見えない。具体的に考えれば日本の複雑な地形で、14万人の隊員数で北から南までの防衛は充分と言えるだろうか。
少なくとも防衛拠点となり得る地形の場所には、今からでも何らかの防衛施設や警戒装置の設置が必要なのではないだろうか。つまりこのように具体的な防衛論議が国会であっただろうか。残念ながら、いまでは日本の経済水域に敵国の弾道ミサイルが着弾しても、いつものことのように感じてしまっている。困ったことに、これらのミサイル技術の向上は目覚ましく、なんでも超音速で飛来し、しかも多弾頭の誘導弾だという、つまり既存のミサイル防衛ではもはや対応不可能に近いと噂されている。もしこのようなミサイルに核弾頭が搭載されていれば、結果はどうなるのか容易に想像がつく。この事実を真剣に受け止めたとすれば、市民の避難場所を真っ先に確保することが先決ではないのか、ところが現実は、すでに予算が組み込まれているように、巡航ミサイルによる反撃能力で国民は守られるのだという。
このことがいかに根拠のない話かといえば、一体そのような装備をどれほど揃えれば国民の命は守られるのかと聞けば、たちまちそのウソがばれてしまう。そんな根拠はどこにもなく、仮にそのような日本の周りにある脅威を数えるだけで、ミサイル攻撃の前に、防衛費増税により国民の生活が壊滅してしまうのである。蛇足になるが、この考えをさらに進めて強力な核兵器に置き換えて考えるとどうだろうか。つまり、反撃能力を拡大解釈し核弾頭を日本の安全が守られる数だけ保有するとすればどうだろうか。やはりどれだけの数、核兵器を揃えれば国民の安全は守られるのか、そのような数の根拠はどこにもない、早晩青天井の核開発競争により経済が立ち行かなくなることはすでに歴史の中に刻まれている事実だ。さらに言えば反撃能力と言っても、敵の軍事施設のみに使用するという言葉もあてにはならない、逃げまわるミサイルを一体どのように攻撃するのか考えただけでもあり得ない話だ。結局のところ攻撃対象は武器を持たない市民に向けられるというのが落ちになる。
つまり、この問題はこような発想が非道と思えるかどうかがこの問題の結論になる。私はこのような考えのもとに核兵器を保有することは、広島、長崎で受けた日本の犠牲を正当化するものだと考えている。私が大切にしたいと思う日本は、このような非道に対し毅然として立ち向かえる日本だ。理想まで手放していったい何を護れというのか。