新日本を護るために
2024年 11月23日 謎の法案
何故後々まで、物議を醸しだすことになる法案を彼らは必至で通そうとするのか、LGBT理解増進法案などはコロナカ禍で国民生活がお先真っ暗という状況で、いつの間にか国会を通過してしまった。そしてこれによる影響はすぐに表れた、最高裁の判決や新たなトイレの設置問題、トイレや公衆浴場での性被害事件、義務教育における性的嗜好の理解促進教育など、これが国民の安全や繁栄に希望を与える法案なのかと頭を抱えてしまった。
しかもこのような政治に対し今回の衆院選で国民は、しっかりNOを突きつけたはずだったが、事態はさらに悪化しているようだ。というのもこれほど国民生活が危機的状況にある中、一刻も早く経済再建に取り組まなければならないという時に、政府は予算審議委員長を野党に譲るという暴挙に出た。
これにより懸念されるのが、増税に繋がりかねない財政健全化と選択的夫婦別性という、これまた一体誰の命がこの法律で救われるのか頭をかしげたくなる法案が国会に提出されそうだ。確かに婚姻関係により姓が変わるというのは、個人にとって不利益になることかもしれないが、とはいえこれが生きるか死ぬかの問題になるのだろうか。その一方で現在日本経済が直面している状況は、いよいよ深刻で零細企業の倒産がさらに顕著になり、これによる労働者の雇用環境もさらに悪化しかねない状況にある。はたしてこれに対する対策は一体どこで話し合われているのだろうか、それどころか減税を旗印に掲げた政党が突然降って湧いたスキャンダルにより全く精彩がない状態ときている。
いきなり話しは逸れるが、苗字帯刀といえば江戸時代まで、それなりの地位がなければ許されない特権階級のものだった。では庶民が、苗字を持たなかった江戸時代の暮らしとはどのようなものだったのか、江戸時代から続く落語を参考にすると、それは熊さん八つあんの暮らしで、彼らには当然苗字がない。その代わり彼らの身分は、誰が保証していたかといえば、その役を家主が請け負っていたようだ。家主といえば親も同然という言葉は、大袈裟でも何でもなく、こういう環境から来ている。また江戸時代には定住しない渡世人というアウトローも存在していた。彼らは旅先の親分さんに宿を借りて、あちこち渡り歩く。とはいえ、宿が変わる都度、親分さんの玄関先で丁寧に自己紹介をしなければならない。いわゆる仁義を切るという習わしなのだが、これにマナー違反があるとすぐに玄関からたたき出されたという。何を言いたいのかといえば、苗字もなく戸籍制度の整わない世界では、どこで暮らしていたのかということが身の証になっていたようだ。
逆に言えば勝手に旅の出来ない世界では、苗字や戸籍というものは、さほど出番がなかったのかもしれない。さて、日本における身分制度は明治天皇により、なんら暴力的な階級闘争もないまま、苗字を誰もが有するという極めて平和的な制度により国民へともたらされた。これが現在の日本国の戸籍制度に繋がっている。ところが今、何故か家族間でどちらかの姓に偏るのは性差別だという決めつけをする人たちにより、家族という人間の最も近しいコミュニティーが崩壊の危険にさらされているというのだ。私には言いがかりのようにしか思えないのだが、これは私の認識の問題で私の許容範囲が狭いということなのだろうか。
では、このように苗字が家族の中で選択できたとすると、この先どんな未来社会が想像できるだろうか、おそらくこのようなことが3世代も続けば、苗字の価値は失われ、同じ名字で集う家族というコミュニティは意味を失う、そのため社会における個人の孤立化はさらに際立つことになるだろう。つまりそうなれば、また熊さん、八っあんの世界に戻ってしまうだけなのか。或いは、これはあくまでもSFの話しだが、このまま地域のコミュニティも崩壊し、家族という括りも特定できなくなれば、時の政府はどうやって個人を特定するようになるのだろうか、指紋認証、顔認証、いずれも普遍的特徴とは言えない。ということは、ひょっとして遺伝子の登録か、これではまるでXファイルの世界ではないか。
話しを現実世界に戻すと、地域や家族のコミュニティーが無くなれば、国という括りもなくなるはずだ。さらに言えば国が存在しなければ民主主義という言葉も必要ないだろう、「自分を守りたかったら自分の財力で何とかしましょう、出来ない方は残念ですが能力がなかったということで諦めましょう」ということにならないだろうか。確か選挙の時には地方が無くなれば国も無くなると言っていた政党があったような、気のせいだったろうか?