新 思考ラボ
2025年 12月12日 愛憎とフェミニズム
ウェキペディアより
先日放送された日曜美術館で、六本木ヒルズ森美術館によるルィーズブルジョワ展が取り上げられていた。この展覧会は今年9月から始まり来年1月まで開催されているそうだ。ブルジョワといえば写真にある巨大な蜘蛛のオブジェが目に浮かぶが、この蜘蛛一見リアルなようで、よく見るとまるでリアルではない。とはいえ私は、生まれて初めてゴキブリを目にするまで蜘蛛はこの世で最も嫌悪を感じる生き物だった。
そのような幼少期の記憶を持つ私にとってブルジョワの表現する蜘蛛は、まさしく嫌悪そのものなのである。番組ではこの得体のしれない恐怖を彼女の父親に対する現体験と結び付けていた。そしてそれに対する憎悪こそ彼女の創作に対するモチベーションなのだという。とはいえ彼女の場合は、このモチベーションに類稀な造形センスが結びついてこそ数々の傑作を世に送り出すことが出来たのだと思う。
その一方で彼女の作品は、時代の潮流であるフェミニズム運動と呼応し、その象徴のようにとらえられる側面を持っている。とはいえそのことで我々鑑賞者が注意しなければならないのは、ブルジョワの憎悪は父親への愛情の裏返しであると言う事を忘れてはならない。このことは父親の死後、彼女はその虚無感から精神的コントロールを失ってしまっていたことからも推測することが出来る。つまりブルジョワ自身が感じていた父への愛情に見合うだけ、彼女が父親からの愛情を認識できていなかったとすれば、その溝は憎しみで埋めるより他なかったのかもしれない。とにかくこのような心の機微は繊細で壊れやすく論理により結果に結びつけることは不可能だというよりない。こんなところに雑駁な法律など持ち込めば社会は忽ち歪なものになってしまうだろう。
確かにこのような運動が起こる前は労働により生み出される貨幣経済は、女性という立場を隅に追いやることになっていただろう。とはいえその立場を人類の繁栄という視点で見れば、女性性失くして人類の繁栄は有り得ないのである。つまりこれまでの社会が、性別による労働の役割分担を受け入れてきた理由は、例えばその社会で争いごとが起これば、その能力などによらず男が真っ先に戦場に送られてきた。そのことこそ、先人が人類繁栄のためには女性性の存続が必要だと考えた理由だろう。というのも女性に備わる月一度の排卵と受胎後10月10日という事実は人間の都合では変えられないものと悟っていたからだろう。ところが医学が進歩した現代では、これすらやってできないことはないという時代になってしまった。結局これまで人類が神の領域と考えてきたことを、私はどのように捉えるかがこの問題の根底にあるように思えてならない。
いずれにしても、このような不平等感が募る社会の根底には、社会的地位の基準がお金を稼ぐ物理的量によって判断されることにある。逆にこのような考え方が蔓延る以前は子孫の繁栄こそが最も高い価値の基準になっていただろう。そこで私が思うのは、これからはどちらの極端にも傾かない社会が望ましいのではないかと思うのだ。つまり女性の社会進出を、以前のように阻むことはあまり賢い社会だとは言えない、だからと言って現代でもすべての労働環境が女性性にとって安全な環境とは言えないだろう。結論を言えば女性の社会進出は、女性の健康と安全が確保できたうえで参加を呼びかけることが望ましいと思える。
このことで現在危惧されることは従来あった配偶者控除など専業主婦という立場がどんどん失われつつあることだ。現在の認識はこのことにあまり注意が向いていないようなのだが、私はこれが取り返しのつかない考え違いだと言いっておきたい。とはいえ目端の利く現代の若い人を見れば、稼げるうちにお金を稼いでおけば将来は安心して暮らすことが出来ると思うかもしれない。しかしながらそれは全くの幻想でしかないのだ。何故なら、お金は社会の変化につれてその価値も全く変化するからだ。そうまで言っても、中には稼いだお金をもって海外移住するから大丈夫と思う方も居られるかもしれない。では移住先の政権によって社会構造そのものが変わってしまった場合、今までの常識が全く通用しなくなることも充分あり得る。例えば今後、文化大革命のようなことが、目の前で起こらないとも限らないのだ。
そう考えれば、自分の未来もやはり自国民の繁栄に掛かっていると言えないだろうか。私はあらゆる思想は自由に尊重されるべきものだと思うが、その思いが成立するためには人間が存在してこそ成り立つものと考えている。