G-BN130W2PGN

お問い合わせ先

mail@makotoazuma.com

 

独立自尊 奥の細道

2026年1月5日gallery,ようこそ,絵本墨絵 俳句

名月や 北国日和 定めなき

この句について奥の細道では、おそらく宿の亭主との会話を句にしたものと解釈されている。

宿について芭蕉は、宿の主から酒を進められ一緒に晴れ渡った夜空の月を眺めていた。芭蕉は明日もこのよう見事な月を眺めることが出来るだろうかと主に尋ねると、主は北国の天気は変わりやすいので雨かも知れんと答えた。そこで、芭蕉は旅の疲れも構わず氣比神宮に夜参りに出かけた。ところが翌日は、前日宿の主が言ったように天候は変わり雨が降って月を眺めることはできなかった。つまり2夜にわたる物語なのだ。ところでこの2日掛のこの話は一体何を我々に伝えているのだろうか、奥の細道にあるようにこの地方の天気の変り易さから旅の趣を伝えるため句なのだろうか疑問が残る。そこで私は、これまで独立自尊奥の細道が辿ってきた解釈でこの句を味わってみたい。

まずこれまでの経緯からいくと芭蕉は全昌寺にて弟子の曾良とも別れ、いよいよ奥の細道を完成させるため自らを漂泊の旅に追い込んでいた。というのも、もともとこの旅は西行法師の生き方にあこがれる芭蕉にとって、その旅を辿ることは人生を旅に例える芭蕉にとっての集大成になる思いがあった。また、そのことによって俳諧蕉風の核心である不易流行の世界を完成させる目的もあったに違いない。ところが人の情というものは悟りの印可を受けた芭蕉でさえ御しがたく、芭蕉の心は晴れることがなかったのではないだろうか。結局人の心は扇を引き裂くように割り切れるものではなく、芭蕉はこの時、神仏に縋りつきたいほどの焦燥を感じていたのかもしれない。

そのような背景からこの句を読むと、名月とは凛として夜空に輝く象徴であり、涼やかな心でこの旅を終えたいと思う芭蕉の願いであっただろう。ところが、その理想に反し芭蕉の心は雲に覆われたまま、闇の中を彷徨い自分の定めなき心にほとほと呆れ果てていたのかもしれない。

ところで芭蕉は、この段で氣比神宮の仲哀天皇の霊廟と言っているが、神宮と関りはあってもこの場所に仲哀天皇の霊廟は存在していないようだ。とはいえ墳墓は大阪にあるのでまるっきり勘違いとも考えづらい、おそらく芭蕉が、ここで伝えたかったことは、勝利の女神、神功皇后との関係性であり、そうだとすればこの句は勝利の女神に対する芭蕉の敗北宣言のようにも思える。

参考:ℝ8/1/3放送の落語研究会にて桃月庵白酒氏の演目山崎屋の枕で昔吉原は日本橋の北側に位置していたために北国と呼ばれていたそうだ。吉原といえば芭蕉の弟子で山形の豪商鈴木清風が思い浮かぶ。当時清風は紅花の取引で大儲けをして吉原を3日間貸し切りにして遊女を休ませたという伝説の人だった。当然江戸に暮らす芭蕉も北国といえば敦賀の国というより、中の印象が強かったのではないかと思ってしまう。ひょっとして「名月や吉原日和定めなき」と読みたかったのではと思ってしまうのだ。